2009/12/31

来年は良い年でありますように

ご無沙汰しております。
今年も今日が大晦日、一年経つのは本当に早いものですね。
この1年、色々ありましたが、とくに大きなことは、5月に父が病にて亡くなったことです。
83歳の生涯を全うしての永眠でした。
喪中にて、年末年始のご挨拶は控えさせて頂きますが、来年は良い年でありますよう祈っております。

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2008/01/01

明けましておめでとうございます。

新年、明けましておめでとうございます。
拙著『新幹線に乗ったポチ』の刊行も15日と迫ってまいりました。
初版の発行が少なくて、取り寄せになる場合が多くなると存じますが、お許し下さい。
尚、インターネット書店のアマゾン書店やセブン&ワイ書店にても、注文を受け付けています。

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カバー写真を掲載いたしました。
今年が皆様にとって良い年であることを願っています。


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2007/12/05

ポチの番外編 近況報告(2)

前回に続き近況報告をいたします。
『新幹線に乗ったポチ』の出版準備も順調に進み、表紙カバーのデザインも決定いたしました。
また刊行日は、新年1月15日になりました。
昨今の本離れの影響で、出版社としても売り上げ予測に対しかなり慎重になられていて、一版ごとの印刷部数を少なくし、売れればその都度版を重ねましょうとのことです(私の拙い文章では在庫が余るかもしれないと危惧されているのが本音?)。また、報告いたします。

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2007/11/17

ポチの番外編 近況報告(1)

皆様ご無沙汰しております。
月日の経つのは本当に早いもので、ポチの旅立ちから3年以上が過ぎようとしています。
そして、このブログで前回の更新をしてからも、早1年10ヶ月になろうとしています。
前回の更新後も、絶えることなくアクセスをいただき、大変感謝し嬉しく思っております。
ここで近況報告をさせて頂きたく思います。

今回、私の拙い記事「雑種犬ポチの一生」を本にすることにいたしました。
私たちはブログにて、ポチの記憶を記録に留めることができ、また、私たちのポチに対する思いを整理することが出来ました。そして更に私たちは、彼の一生を目に見える形として残せたらいいなとの思いで、出版を計画いたしました。

現在出版社と打合せ中で、最終校正の段階に入っています。
タイトルは「雑種犬ポチの一生」のままでと考えたのですが、編集担当者の方とも協議の結果、装いも新たに、『新幹線に乗ったポチ』とすることにしました。
ある程度のインパクトを持ったタイトルが必要とのことで、変更することになりました。

ブログの記事を本にするため各記事のつながりなどを考慮し、また、全ての記事の内容について、もう一度見直し修正致しました。もっとも、元の記事が拙いので悪戦苦闘でしたが、どうにか少しはましになったかなと自負しております。

発行は来年1月初旬の予定です。詳細につきましては、また報告いたしたく思います。

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2006/01/26

第59章 旅立ち!!

 昨年2月から書き始めたブログ「雑種犬ポチの一生」に、多くの方達がアクセスして下さいました。また、多数コメントを頂きました。心より厚くお礼申し上げます。

 ポチとの思い出を綴る事により、ポチと暮らした14年の歳月を、改めて私達の心のアルバムに刻む事が出来ました。家内にとっても私にとっても、ポチの存在は大変大きかったのに、如何せんポチの写真が少ないのは、今になって悔やまれることです。身内バカですが、「あの時のポチは可愛かった!あの時のポチは意地らしかった!反対に、あの時のポチは困ったちゃんだった!」等々、今は本当に楽しくポチを思い出しています。これも皆様方が、私どものブログに遊びに来て下さり、又色々とメッセージを下さった事が励みになりました。重ねてお礼申し上げます。

 ポチを旅出させた事で私達も、「縁あって家族になれて良かった。!ポチありがとう!」という、感謝の気持ちで一杯です。そして私達も、ポチからの旅立ちです。

 このブログを応援してくれた人の中に、家内の甥がいます。家内と私の誕生日(1日違い)に、家内の姉一家から宅急便が届きました。明るいフラワーアレンジメントと、私達(特に私)の大好きなチョコレート、そして甥からの額縁に納められた絵でした。
 その額の中には、可愛いポチがいました・・・。家内は、久しぶりに感涙していました。悲しさではなく、うれし涙でした。

 甥からのプレゼントの絵を掲載いたします。
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 彼は、この秋、京都市内にて、「いきもの交響楽 第四楽章」の題で個展を開く予定だそうです。これまでも小規模ながら、心暖かい個展を開いてきています。もし、お近くの方で、機会があれば覗いてみようという方は、右サイド下方の「メール送信」から、当方にメールを送って頂ければ、後日、日程、場所等決まりましたら、当方よりご連絡差し上げます。 
 優しさをありがとう!思いやりをありがとう!家内から皆様へのメッセージです。

 そして、これまでコメントを頂きました方々、幸さん、レオママさん、ヒナタロウの母さん、くっくちんさん、hitujiさん、ゆきさん、ばあやんさん、グリンドルさん、ののパパ・ののママさん、ありがとうございました。
 またこれまで、私達とポチを見守ってくださった方々、ありがとうございました。

 またいつか、形を変えてお目にかかれる日を楽しみにしています。  完
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2006/01/14

第58章 丹波の風に誘われて

 ポチが私達の前から姿を消した平成16年8月から、4ヶ月半が過ぎ、年末を迎えた。私達は、正月を二人の実家で過ごすため、冬の丹波へ帰省した。
 
 私は年末に帰省したならば、再びポチを捜そうと心に決めていたが、雪に閉ざされた殺伐とした田や、除雪した雪を脇に高く積み上げられた道を呆然と眺めた時、時の流れを感じざるを得ず、たとえ場所は同じであったとしても、夏の日のあの場所へは二度と行くことは出来ないことを実感したのであった。
 それでも雪を踏みしめながら、家内と一緒に心当たりを何箇所か捜したが徒労と終った。

 明けて平成17年、私は仕事に役立つならばとブログを始めたが、ポチの生きた記録を何とか留めたいと思い立ち、彼のこともブログに記すことにしたのである。もう一つ、ポチのブログを始める理由があった。それは、ポチの失踪後、家内がポチの為に創った「詩」を披露したいと思った為であった。
 
 その詩「丹波の風に誘われて(1ページ目)」と「家内のコメント(2ページ目)」を披瀝しますので、宜しければ下をクリックしてください。

「poem1.doc」をダウンロード

                                    つづく 

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2006/01/06

第57章 ポチのいない我が家

 平成16年8月17日、現実にはいないポチを後部座席に感じて、私達は車を我が家へと走らせた。
 互いに「クヨクヨしても仕方ないから安全運転を心掛けて!」と声を掛け合うのだが、如何せん単純な高速道路の運転である。ついつい余計な事を考えて、不覚にも目頭が熱くなるのであった。

 運転中の私に、助手席から家内が、「えっ!泣いてるの!?」と声を掛ける。
 「泣いてなんかいないよ!」と私。「危ないっ、次のサービスエリアで運転変わる!」と家内。
 ところが家内が替わって運転を始めても、やはり同じ状態になってしまう。私達はその度にサービスエリアに入り、「事故でも起こしたら本末転倒だからね!」とお互いを叱咤しながらの家路であった。
 大津サービスエリアでは、レストランで琵琶湖を眺めながらゆったり朝食を取る事が出来た。家内は「ポチがいないお陰だね、」と涙声で強がりを言った。こうして、やっとの思いで辿り着いた我が家であった。
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 荷物の整理をした後、何時もなら、お隣に帰宅した旨の挨拶にいくのだが、この時家内は「どうしよう、涙が出て来て話にならないよう、」と言って直ぐには行かなかった。しかし夕方になって、「もう大丈夫、落ち着いたから・・」とお隣へ行ったのだが、ポチの事を何時も気に掛けてくれている、奥さんの「あれっ、ポチは・・?」の声だけで号泣したのであった。翌日、田舎の手土産をもって、近所の友人達の所に出かけた家内は、その都度号泣してしまったようだ。

 私も家内も、仕事が始まり、仕事に夢中になっている方が、気が紛れ楽であった。そんなある日、テレビを見ていた家内が、「私達って甘いよね!老いた犬がいなくなったことでもこんなに辛いのに・・、可愛い子供が拉致された人達の心の叫び・・、私は自分の痛みとして感じてなかった、恥ずかしい!」と言い出した。私も同じ思いであった。ポチとの生活は心の安らぎや、暖かさを味合わせてくれたが、最期にポチは私達に、人間としての優しさ、思いやりを、気付かせてくれたのであった。

 暫くして家内は、何時もお世話になっていた獣医師のN先生に、これまでのお礼を兼ね、ポチの事を報告に出かけたが、先生が留守の為、女医先生やスタッフの方に挨拶して来たとの事であった。
 翌朝、我が家に掛かってきた電話に出た家内が、暫くして泣きながらの応対となった。ポチがいなくなった事にびっくりされたN先生が、「地元の保健所は?警察は?」と、色々アドバイスの電話をしてきて下さったようだ。有り難い事である。家内は、あらゆる手立てを講じたことを、丁寧にN先生に報告したのであった。

 私達はポチを通じて、本当に色々な方々から思いやりや暖かさを頂いた。本当に感謝の気持ちで一杯である。私がこのブログを立ち上げたきっかけの一つは、家内が書いたポチの詩である。次回は家内の詩を・・・
                                   つづく

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2005/12/30

ポチの休憩室(2)

 共に暮らした雑種犬ポチと私達との思い出が色褪せないうちに、整理し記録しておこうと思い立ち、このブログを書き始めて10ヶ月余り、書いているうちにも更にエピソードを思い出したり、私が知らなかった事を家内に教えてもらったりしながら、漸くここまで書くことが出来ました。また記事をお読み下さった方々から、暖かい心のこもったコメントを沢山頂き、大変感謝しております。記事としては最終段階に入り、私の書けることも残り少なくなりましたが、どうぞ最期までお付き合いの程、宜しくお願い申し上げます。

 明日より正月休みに入ります。皆様良いお年をお迎えください。
                                つづく

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2005/12/27

第56章 その後の日々

 私達は、平成16年8月16日(月曜日)を家内の実家で迎えた。前日まで、家内の兄弟姉妹とその家族が多数集まり、大いに賑わっていたが、お盆休みも少なくなり、皆それぞれの生活の場へと帰っていった。前日の夜帰る家族、16日早朝に帰る家族等々、「またお正月に!」と挨拶を交わしながら、それぞれのペースで去っていった。
 毎年、最期に家内の実家を離れる私達は、この時期いつも二人とポチだけであったが、更にこの年は二人きりの寂しい夏となったのである。
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 月曜日ということで、ポチの消息の新しい情報が入っていないか、各関係機関に問い合わせたが、良い結果は得られない。何か情報が入れば知らせてもらうことをお願いする。
 昼過ぎには、私達の職場、友人、ご近所等へのお土産の買出しに市街へ出かけ、その帰り私の実家へ立ち寄った。もしポチが、実家の近所の敷地内で息を引き取っていたならば、亡骸が発見された時、そのお宅に迷惑を掛けることになる。その為、実家の周り数軒に、予めその旨の挨拶に伺うためであった。
 
 「もし犬の亡骸を見つけたときは、遠慮なく何なりと私の実家へ申し出てください」とお願いする。近所を回りながらも、念のためと思い、気になる場所を捜す二人であった。
 挨拶周りの後、実家で小一時間程過ごし、今後のことを重ねてお願いして家内の実家へ帰ったのである。翌17日の明け方には、私達も生活の場へ帰らねばならなかった。

 その夜、荷物の整理をしながら、私達は話し合った。時間と距離的には遠回りとなるが、今一度私の実家の近くに行き、せめて魂だけでも一緒に連れて帰ってやろうよ、と決めたのである。

 17日、朝5時、私の実家の前に着いた私達は、何時もポチが乗り降りした左後部のドアを開け、「ポチ、帰るよ、早く乗って、」と声を掛ける。そしてドアを閉め、家の回りの道路をゆっくりと回り、更に数箇所で同じ動作を繰り返した。「確かにポチは乗ったよ、」家内が涙を頬に伝わらせながら、震える声で私に言った。私は「うん、乗った、」と頷いたが、声はかすれていた。不覚ながら涙が溢れてしまっていた。
 帰りの道路においても、何時もポチが乗っているように、後部の窓を少し開け放し走行したのであった。

 18日以降、通常の生活が始まったが、ぽっかりと心の中に穴が開いた心境であった。
 帰宅してすぐ、京都府北部の地方紙に、ポチの写真付きで迷い犬捜索の記事掲載の手配する。担当女性記者は「かわいいワンちゃんですね、早く見つかると良いですね。」という暖かい言葉を、電話越しにくれたのであった。

 その後、記事を見た読者から、この犬を見かけたという情報が数件あって、父、弟、甥がすぐに動いてくれたが、いずれも誤報であった。当然に各関係機関にも何度か問い合わせたが、情報は得られず今日に至ったのである。
                                 つづく 

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2005/12/23

第55章 ポチを捜す日々(2) 

 ポチが失踪してから二日経ち、手掛かりのないまま8月14日土曜日の朝を迎えた。この日も容赦のない日差しが、朝から照り付けていた。
 何かポチを捜し出す良い手立てが無いものかと考えた私達は、実家の庭の道路に面した角地に、迷い犬の看板を立てることにした。

 近くのホームセンターが開店するのを待ちかねて、早速私は、板、杭、ペンキ、筆(細い刷毛)等の材料の買出しに出かけた。幅45cm、縦90cm程の合板に、油性ペンキで迷い犬捜索の文字を書き、板の裏に杭を打ち付け、それを角地に打ち込んで立てた。板には大きく、「迷い犬を捜しています。名はポチ、年齢16歳、毛色は白地に茶の斑点。老犬のため、目と耳が不自由です。どんな些細なことでも結構です。お心当たりの方は左記にご連絡下さい。」と書き、私の実家の電話番号を記したのであった。
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 この看板を立てている最中にも、幾人かの通りすがりの人達が文字を読み、「あー、大変ですね、早く見つかると良いですね、」と声を掛けてくれたり、二日前から捜していることを知っている人は、「まだ見つからないですか、
頑張って下さい、」と気遣ってくれたのであった。人の優しさが心に響いた日々であった。
  
 前回の記事でも書いたことであるが、ポチを捜すため何か体を動かしている間は、ぽっかりと空いてしまった心の穴を忘れることができたが、その行動が終わった途端、何ともいえない、居ても立ってもいられない不安感と失望感が頭をもたげてくるのであった。その不安感を払拭するため、この日も何度も甥の自転車で周辺を走り回った。そして思ったのは、このままポチが見つからないのであれば、この暑さの中、幾日も苦しむことなく早く眠るように逝って欲しいということであった。

 翌8月15日の日曜日午前中、私達は、家内の兄弟姉妹家族が集まっている、家内の実家へと向かった。お互いの実家は車で15分ほどの距離であり、家内の実家からでも、ポチを捜すこと自体に、全く問題はなかったのである。私は実家を離れるにあたり、親兄弟達に、くれぐれもポチのことを宜しくとお願いし、何か情報が入れば連絡をくれるようお願いしたのであった。

 家内の実家では家内の兄弟姉妹が、お昼のご馳走の準備をしながら、私達の到着を今かと待ってくれていた。
到着し、まず久しぶりに会った挨拶を交したが、誰言うとなく「あれっ、ポチは?」と問いかけてきた。私達は先日来の経緯を辛いながらも話さねばならなかった。家内の姉妹の中でも特に、12日に私の実家に行く前に一度家内の実家へ立ち寄ったとき、私達を迎えてくれた近くに住む義姉は、「なんでっ!あんた達、こんな所に来ている場合と違うよ!早く捜さないと!」と言ってくれた。彼女は、家内が父の看病のためポチを連れて何度も帰省したとき「ポチッ!ご苦労さん、」と言って、何時もポチを労ってくれた人である。
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 義姉には、実家の周辺を何度も捜したこと、看板を立てたこと、保健所、警察等の関係機関には届け出ていること等々話したのであった。それでも義姉の言葉に従い、昼食まで捜すことにした。そして海外に住んでいてお盆で帰国していた姪が、「私も一緒に捜してあげるよ!」と言ってくれて彼女の車で捜しに行くこととなった。

 3人で、こんな所にはポチは行かないだろう、という場所までくまなく捜したが、やはりポチを見つけることはできなかった。広い田んぼ中の農道に立ち尽くし、夏の風に吹かれながら、せめて亡骸だけでも見つけてやりたいという思いに、心が変わって来たのを自覚した私であった。
                              つづく

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2005/12/14

第54条 ポチを捜す日々(1) 

 翌朝午前5時、私達夫婦は、夜明けと同時にポチの捜索を始めた。両親及び弟家族には、これ以上の負担を掛けたくなかったので、私達だけで出発した。その日も一段と暑くなることが予想された。

 ポチを捜す途中、幾人かの人に声を掛ける。近くの畑で、既に仕事に取り掛かっていた老婦人に声を掛け、事情を話し尋ねるが、見かけなかったという返事。更に、白い大型犬を連れ散歩中の年配の夫人に尋ねる。やはり手掛かりなし。「それは心配ですね、早く見つかるといいですね・・」と、ねぎらいの言葉。丁寧に礼を述べ、捜索を続けた。暑くなる前に何とか捜したいと思うばかりであった。2時間捜し回ったが、ポチの行方は全く手掛かりなしであった。一旦実家に帰り、既に起床していた実家の家族に、捜索の結果を告げる。皆沈痛な面持であった。
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 私達が、毎年盆と正月に帰省するのは、もちろん物見遊山ではなく、長男夫婦としての務めがあった。どんなにポチのことが気がかりであっても、その務めはやらねばならなかった。心は嵐の中、必死で家の周りの清掃、墓参り等をする。墓前でも、ポチが早く見つかることを祈ったのであった。
 家内も当然、長男の嫁の務めがある。三度の食事の支度、家事の手伝い等々、私より更に多くの仕事がある。
そんなもの全てを放り出して捜し回りたいが、じっと耐えてそれらをきちんとこなした上で、ポチを捜索したのであった。

 9時になると同時に、管轄の保険所、動物保護センター、警察署に捜索の連絡を取る。毛の色、性別、老犬であること、私の住所は神奈川県であるが京都府の実家に帰省中に行方不明になったこと等々、細かく説明しお願いする。どの部署も応対は親切であった。

 その後も折を見ては、ポチを捜しに出掛けた。甥の自転車を借り捜し回る。夏の日が照りつけ汗が流れ落ちる。しかし、この暑い中でポチも苦しんでいるのではと思うと、自分の暑さなんかなんでもないと思った。自分が苦しめば、その分ポチは楽になるような気になって、懸命にペダルを漕いだ。
 捜し回っている間は、捜すこと自体に気を取られ、少し気が紛れたが、手掛かり無く実家に帰ると、途端に例えようもない不安感が襲ってくる。その不安感に耐え切れず、また自転車を駆って捜しに行く、このことの繰り返しであった。
                                つづく 

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2005/12/04

第53章 ポチが失踪した日(2)

 平成16年8月12日の夕方、私達は懸命にポチを捜し続けていた。西日は容赦なく私達を照らして、体から汗を噴出させていた。遅れて帰宅した弟も加わり、総出での捜索となった。
 
 ポチは、私達が荷物運びを終えて一息ついた午後4時20分頃から、甥がポチがいないことに気付く4時40分頃までの僅か20分間に、失踪したことになる。蝶々結びにしてあったリードとナイロン紐の結び目を引っ張って解いたのであろう、首輪とリードを付けたまま、消えてしまっていた。
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 捜索当初は、ポチはすぐにでも見つかるものと思っていた私であったが、やがて1時間が過ぎようとした頃には、尋常でない事態に陥ったことを悟り、夏の日差しの中をさまよっているであろう老いたポチのことを考えると、身をよじるような思いになっていた。

 体を懸命に歩かせながら目と声で捜す一方、私の頭は体から遊離して、幾つかの思いが取り付かれたようにグルグルと回っていた。ポチは水を飲めているのか?なぜポチは離れてしまったのか?一刻も早く見つけてやらなければという焦り、N先生に預けておけばこんなことにならなかったのにという後悔、そして、どうしてしっかりリードと紐を結んでおかなかったんだという家内を詰る思い、であった。しかし、何回か家の周囲を捜した後、田んぼの方を捜そうとして坂を下っていたとき、田んぼを探し終えて坂を上ってくる家内の必死の形相を見た瞬間、この家内を詰る思いは消えうせ、一生口にするまいと心に決めたのであった。
 
 何の手掛かりもなく7時を過ぎ、辺りを夕闇が包み始めていた。とりあえず夕食を摂り、夜、再び捜すことにした。
年老いた両親、弟家族にこれ以上手を煩わしてもと思い、私達だけで捜すことにした。
 夜、ライトを照らしながら捜せば、動物の目はライトに反射して光るので、ポチが藪の中等、物陰に居ても分かるのではと家内も言った。後で冷静に考えると、胸に手を当てるだけで動きが止まる状態のポチが、足元に何本もの竹が折り重なった藪の中に入り込むことは、不可能であった。
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 夜の捜索も結果を得ることが出来ず終わった。ポチが遠くへ行けないことを考えると、どんなに広くても1キロ四方の範囲と思われ、探す場所も限られてしまい、同じ場所をグルグル捜すことになってしまっていた。
 この日朝早く、神奈川県から長旅をしてきた私達は、肉体的にも精神的にも疲労の極に達しようとしていたので、明朝早く起きて捜すことに決めた。

 実家の2階の私達の部屋で、疲れ切った私は、うつらうつらとしては目覚め、またうつらうつらとする夜を過ごした。となりに寝ている家内の様子を伺うと、小刻みに肩が震えているのが分かったが、そっとしておいてやるしかなかった。実家の近郊では、田舎のことでもあり、まだまだ長男の嫁の努めという風習が残っている。
 家内はポチを捜すことと共に、その努めもこなさなくてはならず、昼間ポチを捜しながらも涙を見せることなく気丈に振舞っていたが、夜床についてから、込み上げてくるものがあったのである。
 
 私は、夜中何回か階下に降り、勝手口の土間を覗いた。勝手口の戸は、夜、ポチがいつ帰って来ても入れるように、30cm程開けてあった。しかし、何回覗いても、ひょっとしてポチが帰っているのではという私の淡い望みはかなえられなかったのである。
                                つづく 

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2005/11/27

第52章 ポチが失踪した日(1)

 私の郷里である京都府福知山市は、古くからの城下町で、戦国時代には明智光秀の所領地として栄えた。
現在は、人口7万人弱の京都府北部の主要地方都市となっていて、平成18年1月には、近隣の三和町、夜久野町、大江町と合併することが決まっている。
 
 私の実家は、この福知山市内の郊外にあり、日本海につながる由良川の支流である土師川(はぜがわ)が流れている。実家を含め、古くからの家々が集落を成していて、集落から一段下がった場所に、小規模ながらの田園が土師川の堤防まで広がり、夏には青々とした稲の波が風に揺れている。
 祖父の代までは専業農家であったが、父の代から半農となった。父は給与生活を送りながら、土日は農作業をするという生活を長く続けたが、今は全て仕事はリタイアし、悠々自適の生活を過ごしている。
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 私は早くから実家を離れているが、弟がとなりに家を建て、実家の父母と共同生活をしている。父母は男3人の孫達、つまり私の甥達に囲まれ、賑やかな毎日を送っている。
 ポチを初めて実家に連れて行った時、現在社会人となっている上の甥2人は小学校低学年、下の甥はまだ就学前であった。 
 
 平成16年8月12日、家内の実家からポチを伴って出発した私達は、午後4時過ぎに私の実家に着き、裏庭にある車庫に車を止めた。夏の太陽は漸く西に傾きかけたところで、まだ暑い西日を注いでいた。
 私は運んできた土産等の荷物を次々と車から降ろし、それらを勝手口から運び込んだ。家内は、まずポチを降ろして、リードの先に更にナイロン製の紐をつないで、その紐を勝手口の前にある柱に結わえた。この場所は、ポチが実家に滞在するとき何時も過ごす場所であり、長くした紐により、夜以外は開け放されたいる勝手口から、屋内外をポチは自由に出入りしていた。
 家内は、新しい水を容器にたっぷりと入れて、ポチの側に置いてやった。その後、私と一緒に荷物を運んだのであった。私の父母、義妹、甥達も総出で迎えてくれて、荷物運びを手伝ってくれた。弟は仕事で留守であったが、今日は早く帰宅するとのことであった。
 
 皆はポチに対しても、「ポチ、お帰り、お疲れさん」と声を掛け、頭を撫ぜてくれたりしたが、残念ながら、若い頃のように尻尾を振って、愛嬌を振りまくということはなくなっていた。人間達の忙しない動きにも反応せず、柱に繋がれた位置でじっとしていた。いつもの夏であれば、すぐに西日を避けて屋内に移動するはずのポチであった。
 これは後で家内が語ったことであるが、今になって思えばこの時、西日に当たっていたポチが、「眩しいよう、暑いよう」というような、何とも言えない顔をしていたとのことであった。
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 荷物を運び込んだ後、私も居間に入る際にポチを撫ぜてやり、「後で散歩に行くからね」と声をかけてやった。この時にはポチも屋内に入り、勝手口の土間でたたずんでいた。
 そして皆で冷たい飲み物で喉を潤し、暫しの歓談をしていた時、ポチを最も可愛がってくれていた一番下の高校生の甥が、勝手口から家内を呼んだ。彼はいつも、ポチが実家に着くと側に行って、優しく相手をしてくれていた。
 
 「おばさん、ポチが離れているよ!」という甥の声が私の耳にも届いた。家内が勝手口に向かい暫く経った。私は、ポチは離れてはいるが、裏庭のあたりでたたずんでいるような気でいたので、そのまま居間にいたが、「ちょっと来て!」と言う家内の緊迫した声に胸騒ぎを覚えて、勝手口から裏庭に出たのであった。
「ポチがいなくなった。紐は、この後すぐに散歩に行くため蝶々結びにしていたけれど、解いて行くなんて信じられない!」と家内は言い、「取り合えず私は遠くから捜すから、近場から捜して!」と、車で捜しに行った。

 私は、裏庭、家の周囲、畑、下の田んぼの農道、近所の庭先、などを捜して回った。父母、義妹、甥達も手分けして捜してくれた。その内、遠くを捜してきた家内が帰り、「遠くには行っていないよ、ポチの足腰から考えて、やはり近場だと思う」と言い、それぞれ捜すことになった。
 この時点で私は、暫くするとポチは見つかるものと信じて疑わなかったのである。
                                つづく

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2005/11/21

第51章 ポチとの最後の旅行

 平成16年の夏、お盆の帰省の時期を迎えて、私達は、ポチを例年のように、田舎に連れて行くか否かで大変に迷っていた。
 
 体力的にかなり弱っていたポチを、N獣医師の所で預かってもらえれば、専門家の管理下で安心ではあった。
 しかし、ポチの最期には立ち会ってやりたい私達にとって、万が一私達の帰省中に、ポチに最悪の事態が訪れた場合、帰省先の京都府と自宅がある神奈川県では、余りに距離があり、彼の最後の瞬間に立ち会えない事態になりはしないかという、恐れを抱いたのであった。
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 色々二人で悩んだ末、できるだけポチの側に居てやることが、ポチにも幸せであろうとの結論を出して、彼を連れて帰ることにしたのであった。今になって思えば、この判断が、その後の悔やまれる結果の誘引となったのではあるが、この時点では分かるはずもなかった。
 更に私は、仕事上の関係から、この年、愛玩動物飼養管理士という、民間の動物愛護団体の資格を取得していて、夏に老犬の長距離移動を行うのは不測の事態を招く恐れがあり、避けるべきである、ということも知っていたが、それでも連れて行ったことに、後に大変悔やんだものである。

 8月12日の早朝、私達とポチは車で神奈川県綾瀬市を出発した。この年の夏は特に暑く、御殿場を過ぎる頃にはぎらぎらした太陽が高く昇り、容赦なく道路を照りつけて、早くも周囲の空気に陽炎を立ち上らせようとしていた。当然、エアコンは全開としていたが、ポチの車酔いを防ぐ為、後部左右の窓は15cmほど開けてあり、その隙間から、朝の熱風が流れ込んできていた。
 若い頃のポチは、窓の隙間から顔を出し、外の空気の匂いを嗅ぎながら、旅をしたものであったが、この日は、後ろの座席で、うつらうつらと寝ていた。
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 途中、2時間おきに休憩を取った。全て例年通りであったが、唯一、ポチが素早く歩けないため、家内が彼を抱えて日陰まで連れて行き、用を足させていたことであった。
 あるパーキングでは、まだ幼い少女が、ポチを見て「かわいいー!」と言ってくれた。私は「ありがとう、でも、もう、おじいさんなんだよ」と答えたことを今も覚えている。

 何回も休憩を取り、大小の渋滞も切り抜け、東名、名神と乗り継ぎ、国道9号線を丹波方面に下って、漸く午後2時過ぎに、まず家内の実家に着いたのであった。6年前に主(家内の父)を亡くしたその家は、普段は空き家でひっそりとしている。が、盆暮れは離れている兄弟などが集まり、一時の賑わいを見せるのであった。勿論、ポチはその中でも人気者であった。

 私達が着いたその日は、まだ誰も来ておらず、土産等を仏間に納めた後、私達だけで墓参りなどを済ませた。ポチも日陰を選んで散歩させた後、休ませた。その内、近くに住む義姉が来て、互いの近況を報告しあい歓談したのであった。その間ポチは、旅の疲れを癒すが如く爆睡していた。

 やがて4時15分前になり、義姉は買い物、食事の準備等の為帰宅することになり、私達とポチも今度は私の実家に向かい再び車を走らせた。
 私の実家は、家内の実家からは車でわずか15分の距離にあり、4時過ぎには無事到着したのであった。
 この時点で、8月12日は私達夫婦にとって、生涯忘れられない日となることは知る由もなかったのである。
                                 つづく 

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2005/11/15

第50章 悲しき「ポチの開き」

 ポチは、暫く私の手作りの「ちゃぶ台」を重宝して使っていたが、体の衰えは止めるべくもなかった。
私は更に、ポチの体を支える台を作り、ポチが食事中その台を、お腹の下にあてがうことも試みたが、上手くいかず、その台は廃棄となった。

 ポチはヨタ付きながらも、自力でどうにか餌を食べることができたが、その内、両足がスーと外側に開いて行き、バランスが取れなくなって、餌を入れた容器に頭からゴットンと、突入してしまったのである。食事をしていた家内が「アッ!」と声を上げ、ポチを支えるため駆け寄ったが、間に合わなかった。ポチの開きである。「悲しいねぇ~、ポチ!」と言いながら、家内が体を起こしてやる。私も、やせ衰えたポチの体を支えてやると、手に触る肉の落ちた骨の感触に、嗚呼!と、びっくりさせられたのであった。
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 我が家のリビング及びキッチンはフローリングである。年老いたポチにとっては滑りやすく、立てなくなってしまったのである。滑らないようにと、綿製のカーペットを敷いたりもしたが、足腰の筋肉がすっかり落ちたポチには、効果がなかった。

 この頃は、食べられる餌の量も、極端に少なくなっていた。ポチが餌を食べている間、家内は彼の体を支えてやっていたが、やがてポチは、餌の容器の中をじーっと見ているだけで、自分からは食べようとしなくなった。家内が手で、ポチの好きな肉や人参を彼の鼻先に持っていって、漸く少し食べるという生活が続いた。どうやら目も余り見えていないようであった。
 
 私達は、「犬は鼻さえ利いていれば、嗅覚のみで行動できるはずだから・・、ポチも耳が聞こえなくても、目が白く濁って見えなくなっても、大丈夫なのではないか」と、意味も無い事を話し合ったものであった。
 だが、その内に、鼻先にポチの好物を持っていっても、反応を示さなくなってきた。家内が「ハイ、ポチ食べて」と口の中に押し込んでやって、始めて咀嚼するという状態になったのである。

 行動面からもポチは、ヨタ付く足で部屋の隅の角に行き、角に顔を突っ込んで、ボーっとしたままになって来た。家内が「ポチ!何考えているの、」と言って、彼の体をポンポンと叩いても、何の反応も示さない。
 その内、粗相も目立ってきた。小の方はオムツで何とかしのいでいたのだが、大の方は如何せん、大変である。 家中あちらこちらで粗相をされると困るので、私達両方が仕事で留守にする時は、洗面所を彼の居場所にした。

 洗面所に、捨てても良い敷物を敷き、ドアは閉めずに、替わりに柵をして区切り、そこにポチを入れて仕事に出かけたのであった。これであれば万が一大の粗相をしても、汚れた敷物を処分するだけで済むのであった。

 こうして平成16年の春が過ぎ、やがて夏を迎えることとなった。ポチは冷房付きの洗面所の個室で、最後の夏を過ごすことになるのである。
                               つづく

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2005/11/09

第49章 ポチのちゃぶ台

 足腰の衰えてきたポチは、家に居る時、殆んどうつ伏せになって寝ていた。
但し、食事時と、水を飲む時は、懸命に両足を踏ん張りながら、時間を掛けて立ちあがった。しかしながら、その足はぶるぶると小刻みに震え、長時間立っていることは出来なくなっていた。

 更に、餌を食べたり、水を飲むためには、どうしても頭を下げなければならない。唯でさえ、立っているだけで精一杯のポチにとって、頭を下げることは重心が前足に掛かり、体を支えきれず前のめりに倒れてしまうことを意味した。このままでは、ポチは食べることも飲むことも、出来なくなってしまう。家内から私に、「ポチが頭を下げることなく、食べたり飲んだりできるように、何か工夫してよ!」と、注文が来たのであった。
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 私は、早速ポチの「ちゃぶ台」の製作に掛かった。餌用と、水用の両方を作る。製作自体は半日で出来るのだが、高さを決めるのに苦労する。高すぎてはポチが餌を食べ難く、低すぎると頭を下げる負担が大きくなるからである。
 最初は、ちゃぶ台の足を長めに作った。、数日、実際にポチが餌を食べる様子を観察し、徐々に短くしていく。短くしすぎないよう気を付けながら、5mm単位で短くしていった。3回ほど調整した高さで良しとしたのであった。
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 夕刻、「ポチ!ごはんだよ!」 家内が耳の遠くなったポチに聞こえるよう、大きな声で呼びかける。寝ていたポチは家内の声を聞き、何回か足をばたつかせながら立ち上がる。そして、リビングの隅からダイニングへ数メートルの距離を、ヨタヨタと歩く。まっすぐに歩いているつもりなのだろうが、顔と体が少し斜めに向いてしまっているので、少し違う方向へ歩いてしまう。それでもどうにか餌の有る所に辿り着いた。

 ここで私の作った「ちゃぶ台」が、効果を発揮したのであった。ポチは体を左右に揺らしながらも、美味しそうに餌を食べた。勿論、食べる量は若い頃の食べる量とは比べるべくもなかった。
 尚、この主をなくした二つの「ちゃぶ台」は、今は家内の趣味の園芸用の花台になっているのである。
                                   つづく

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2005/11/04

第48章 ポチとの散歩

 ポチが、前の飼い主の事情により我が家にやって来たのは、平成2年の秋、良く晴れた日曜日であった。ポチが2歳の時である。
突然に犬を飼うことになった私達は、飼育方法を飼いながら学ぶということになった。
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 散歩の時、若いポチは、鼻を地面に擦り付けるようにして匂いを嗅ぎながら、右へ左へと力強くリードを引っ張りる。元気が有り過ぎ、首輪で自らの首が絞まって、ヒーヒー言いながらも前へ前へと私達を引っ張った。首が絞まっては可哀想と、散歩用の胴輪を購入、以後その胴輪にて散歩をすることになった。
 書物によれば、飼い主の側にピタリと付けて歩かせると載っていたが、当時、私達はポチの気持ちに任せようと考えていた。わがままなポチに育ててしまったかもしれないと、今になって思ったりもする。
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 数年して、漸くポチも落ち着き、私達の歩きとポチの歩きのリズムが合うようになり、リードも引っ張られることなく、少し弛む程度で歩くことができるようになった。
 この時期は、晴れた日も雨の日も、朝40分、夕方50分、それぞれ3キロ前後の朝夕違うコースを、ポチは間違えること無く、私達の先を歩いた。
 私達にとっても、ポチにとっても、この楽しい時期が永遠に続くかのように思えたが、犬の成長つまり老化は、人間よりはるかに速い速度で進むことを思い知らされる。あっという間に、ポチの時間は私達の時間に追いつき、そして追い抜き、彼は衰えを見せ始めたのである。
 
 あれ程元気に散歩をしたポチが、ゆっくりと歩くようになる。特に発病してからは、少し歩くたびに咳き込み、立ち止まり、また少しづつ歩くという状態になった。今度は私達がポチの前に歩く。ゆっくりと彼の様子を見ながら、リードを私達が引っ張らないように注意して歩く。私達がポチを見ると、ポチも私達を見上げながら、苦しいよー、と言いたげにゆっくり、ゆっくりと歩いた。
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 若い頃、1回の散歩で長い距離を歩いたポチも、最後の1年程は20分ほどかけて、300mから400m程度歩くのがやっとの状態になった。立っていてもバランスを崩し、ふらりと倒れ込むこともしばしばであった。
 昼寝をするのに好きであった2階へも、自身では上れなくなり、階段下でたたずみ、2階と私達を交互に見つめ、私達に抱えて上げて欲しいと催促するポチであった。
                                  つづく 

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2005/10/27

第47章 「お犬様でしたか。」敬語を使われたポチ!

 月日の経過と共にポチは、「ゴヘェ~ッ!、ゴフェ~ッ!」と、薬では抑えられない咳をするようになっていた。
 無事夏を過ごし、秋が過ぎ、冬の寒さに耐えているポチにとって、2月は花粉症が始まる二重の苦しみの月である。平成15年のことであった。
 
 「ゴフォ~ッ、グッ、グッ、グフェッ~クション!!」本当に苦しそうである。鼻が詰まり、更に大きなくしゃみは、心臓肥大で薬漬けのポチの体にとっては大きな負担となった。
 足腰も相当に弱って来てはいたが、まだどうにか階段の上がり降りは出来ていた。私達が仕事に行っている間、ポチは、「ゴフォッ~、ヘェックショ~ン!」と咳き込みながらも、暖かな陽だまりを求めて、家の中をあちらこちらとうろついていたようである。
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 私達の休日に、電気屋さんが、頼んでいたエアコンの見積を持って来てくれた。古くなったエアコンを入れ替えるためである。その電気屋さんが玄関先で、「先日、別件で近くまで来た時、お寄りしたのですが・・ おじい様が2階にいらっしゃった様子でしたが、チャイムを押しても聞こえなかったようで・・」と話し始められた。
 私も家内も(うちにはおじいさんはいないのに??)と首を傾げている時、「お客さんは、誰ぇ~?」とポチが、いつもの様に咳込みながら、「ドッスン、ドッスン」と階段を降りて来た。
 
 階段を降りてくるポチを見た途端、電気屋さんの目が点になった。階段を見上げ、ポカンと口を開け「はぁ~?お犬様でいらしゃいましたか・・」とビックリしていた。家内も「はぁ~?犬ですが・・・!?」と、これも訳の分からない返事をしていた。
 電気屋さんが言うには、「先日チャイムを鳴らした時、私が聞いた”ゴッホン!ゴッホン!”という咳は、正しく人間のおじいさんの咳でした。」との事であった。見積もりの説明をしながらも、私達の側で一緒に話を聞きながら咳き込んでいるポチを見て、電気屋さんは、頭をフリフリ「ふ~ん」と本当に狐に騙された様な表情であった。
 この愉快な話は、私達にとって、大笑いした忘れられない思い出である。

 そして、この話には、もう一つ落ちがあった。今年に入り、このブログを書き始めて暫くしてから、家内がお隣の奥さんとの世間話の中で、ポチの思い出をブログに綴っている事を話した際、「ポチはちゃんと留守番犬になっていたわよ」という話になったそうだ。
 私達の留守中、作業服を着た人が庭でウロウロしていたので、奥さんが声を掛けてくれた。「お二階にどなたかいらっしゃるようなんですが・・」と言う一見怪しそうな人に対して、「お留守です」と言ってはまずいと思った奥さんは、「いらっしゃるのは耳が遠いおじいさんなんで・・」と、咳をしているポチを人間のようにカモフラージュしてくれたとの事であった。
 
 そう、その一見怪しげな人が、あの電気屋さんだったのである。ポチを見上げた時の電気屋さんの摩訶不思議そうな顔(なんで、耳の遠いおじいさんが犬なの??)の意味がつい最近、理解できたのであった。
 怪しげな人は、ただ一人、ポチに敬語を使ってくれたいい人なのであった。
                               つづく

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2005/10/20

第46章 ポチ、ストーブの前に座り込む

 心臓病の進行により血液の循環が徐々に悪くなったポチは、秋も深まり少し肌寒くなっただけで、私達のそばに来てピッタリと寄り添うようになった。平成13年の晩秋からである。
 
 更に、初冬に入るとポチは、天然の毛皮を着ているというのに、寒い寒いと小刻みに震えた。家内が台所に立っているときも、のそのそと近寄り、「寒いよう~!」と震えながら訴えていた。
 家内は「もう~、相変わらずポチは、大袈裟なんだからぁ~、こっちにおいで!」と、ポチをリビングに連れて行った。そして、ひざ掛けを頭から体全体にふんわりと掛けてやると、まるでガウンを頭から被ったボクサーのように、ポチはその場所で、そのままの状態でじっとしていた。
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 暫くすると寒さが収まったのか、ポチはひざ掛けを頭から体に掛けたまま、うろうろと歩き回る。うっかりすると踏みつけてしまうような場所で、ひざ掛けを頭から被ったまま、丸まって寝てしまう。
 見かねた家内は、ポチの為にベストを急遽編むことにした。ちょうど私のセーターを編み始めていたのだが、「ポチのベストが先ね!」と言って、私のセーターは後回しになってしまったのである。

 せっかちな家内は、夢中になってポチのベストを網みあげる。両サイドに縄模様の入ったおしゃれなベストである。頭と、尻尾の所に、丸く穴を開けた優れものであった。ポチも大変気に入り、「ポチッ、ベスト!」というと、のっそりやってきて、早く着せてとばかりに、じっとしていた。ポチにとって、冬には欠かせないアイテムとなった。
 ポチはその後も家内に、柄が入ったベージュのベスト、グレーに棒線の入ったベストと、計3着を編んでもらって、着まわしていた。

 何年かすると、純毛で編んだベストは、何度も洗っているうちに縮まってしまい、頭用の穴からポチの顔が通りにくくなったりもした。それでも寒い日には、ポチはお気に入りのベストを着たうえ、ストーブの真ん前にうつ伏せに寝転んで、気持ち良さそうに寝ていた。しかし寝ながらも、年を重ねると共に「ゴフォ、ゴフォ」と咳込む事が多くなった。

 因みに私のセーターはというと、片腕の途中で編むのを中断していて面倒になった家内は、「ポチと一緒で、ベストでいいでしょう!」と省略してしまった。
                                つづく

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2005/10/14

第45章 ポチ!冷え冷えマット使って!

 心臓の病気を発症してからのポチは、極端に暑さ、寒さに弱い犬となってしまった。一方、自然派の家内は、夏でも余程暑くないと、エアコンを入れない主義であった。
 
 ポチが「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、」と暑い息を吐きながら、家の中の涼しい所を求め歩いて、「暑いよう~」と家内に訴え掛けても、「ポチッ!大袈裟ねぇ~!人間の私が我慢してるんだから、あんたも我慢しなさい!」と、訳の分からない事を言われていた。私はと言うと、暑さもさることながら湿気に大変弱く、エアコン大好き人間なのである。従って、ポチの気持ちが良く分かった。家に居るときは、すぐスイッチONである。ポチも気持ち良さそうである。
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 私がリビングでエアコンをつけ、快適にくつろいでいると、家内が台所に行き、「何で台所に誰もいないのに、エアコンつけっぱなしなの!」と、すぐにスイッチOFFである。私は、「ポチが寝ているんだよ!」と反撃する。「ポチがリビングに行けばいいでしょ!」と家内・・・。「まったく!ポチに優しく、自然には優しくないんだから!・・節電!節電!」毎年繰り返す会話であった。
 それでも私は挫けず、二人とも仕事で家を留守にする日には、私より後から家を出る家内に、「今日は暑くなるから、エアコン絶対に消さないでよ!」と、念を押すのであった。

 ある日、二人でホームセンターに行った時、家内が「これ!これ!」と言いながら、[冷え冷え!これでワンちゃんも夏ばて知らず!]と宣伝文句が謳ってあるマットを持ってきた。保冷剤に水を含ませナイロンメッシュのカバーがあるタイプである。家内は喜び勇んで買って帰った。「ポチ、涼しいよ!」と、夏場ポチがお気に入りの場所としている、台所のテーブルの下に、そのマットを敷き始めた。

 そこに寝ていたポチは、「何するんだよ、寝ているのに邪魔だなぁ!」とばかりに、マットを避けて寝転ぶ。「ポチッ、マットの上で寝てごらん!」と、家内は無理やりポチをマットに乗せる。ポチは逃げる。いたちごっこである。ポチの勝ちであった。家内は諦めたようである。
 
 「せっかく大枚はたいて、大型犬用買ったのに!」ポチが寝なければ邪魔なだけである。マットは家内の職場の犬を飼われている同僚にあげたが、その家のゴールデンレトリバーのチャンプ君も、一度も使わなかったとの事であった。
 そして翌年の夏、新聞広告の、[水に濡らさない”冷え冷え”マット・・カバーは布製!]の文字に心を動かされ、通信販売で取り寄せていた。しかし結果は同じ。ポチは一度も寝ない。どうやら踏んだときプニュ、プニュする感覚が嫌なようであった。今度は家内の友人のペット、猫の花ちゃんにあげたが、花ちゃんも使わなかったとの事であった。

 それ以降、さすがの家内も悪あがきせず、ポチの為にエアコンをつけてやっていた。もちろん弱冷であった。
                                 つづく

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2005/10/07

第44章 ポチは三味線大好き

 投薬の影響でお漏らしをし始めたポチは、有り難い事に、オムツを付ける事を嫌がらなかった。散歩から帰り、足を洗ってから家の中に入り、すぐゴロッと寝ているポチに、「ポチッ、オムツ!」と言いながら、お腹をポンポンと軽く叩くと、ポチは、「ヨイコラショ、」とばかりに立ち上って、上手にオムツを付けさせてくれた。
 我が家に来る人達からも、最初の内は「どうしたのポチ?何着けてるの?」と問いかけられていたポチであったが、やがてポチ=オムツは定番となり、皆に認知されたのであった。
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 さてこの時期、あるきっかけから家内は、お隣のお婆ちゃんに、三味線を習う事になった。そしてポチは、どういう訳かこの三味線の音が、いたく気に入っていたのである。
 一ヶ月に2~3回、家内と、家内の友人と、そしておばあちゃん先生の三人が、都合のいい時に我が家に集まり、三味線教室の開催となるのであった。因みに、このお稽古は今も続いている。
 
 三味線を持って皆が集まると、ポチは嬉しそうにお出迎えをした。
 家内と友人が、おばあちゃんに向き合って稽古を始める。そして三味線の音が鳴り出すとポチは、三人のど真ん中に来てじっと立って、気持ち良さそうに、頭を上げた状態で、音色を楽しんでいたようだ。
 暫くすると、ポチの癖で「フンッ」と鼻を鳴らしてから、その場所で横になり、稽古が終わるまで気分良く寝転んでいたのであった。

 いつもポチは、散歩が終わり一段落すると、お気に入りの2階でリラックスしていた。晩年、ポチは耳が遠くなり、皆が集まったのに気付かない時があった。家内達が稽古を始めて暫くすると、「ドッ、ドッ、ドッ、ドテッ、」と、ポチが階段を駆け下りてきて、「何だ、皆んな来てたの!」とばかりに、それぞれに「ペロ、ペロ、ペロ、」と挨拶をして回った。
 「もう~いいよ!ポチ!有り難迷惑だよ!」と言われてから、ドカッと三人の真ん中に寝て、三味線を楽しんでいたポチであった。
 ポチが居なくなった直後の稽古の日、おばあちゃん先生は、家内に泣かれるものと覚悟して来訪したとの事であった。しかし家内は「大丈夫!大丈夫!」と気丈に言って、その日の稽古は無事に終わった。また、ポチの思い出も、明るく喋っていたそうだ。

 ところが、その後何度目かの稽古の日家内は、心地よく三味線を弾いている途中、ふっ~と急に涙が溢れてきて、「やだぁ~、急にポチが舞い降りてきちゃったぁ~、」と大泣きをしてしまったのであった。
 おばあちゃん先生も友人も、「やだぁ~もう、もらい泣きしちゃうじゃない~、」と言って、皆でポチを偲んでくれたとの事であった。
 ポチも病気の進行と共に、気温の変化に弱くなっていった。次回は暑さ対策編を・・
                                 つづく

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2005/09/30

第43章 ポチのオムツのバージョンアップ

 ポチのお漏らしを防ぐオムツについて、市販のオムツでは納得出来ない家内は、薬局で、大人用のフラットのオムツを買って来た。
 そして、何やらハサミを出してきて、オムツを三等分に切り始めた。ガムテープも引っ張り出して来て、テープの真ん中から半分に縦に切り始めた。
 切ったオムツの切口を、先ほど縦に半分に切ったガムテープで、包む様に張って留めた。オムツの中の吸収剤(粒子)が、こぼれ出ないようにしているらしい。

 今度はタオルを用意して、紐を付け始めた。「よっしゃぁ~!完璧!」妻の雄叫びである。
 「ポチおいで!」 家内は3分の1にしたオムツを、ポチのお腹にあてがって、それを紐を付けたタオルで、ぐるりと腹巻のように、胴に巻き付けた。成程!確かに市販のオムツよりすっきりしていて上出来であった。
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 家内はガムテープを切る時、テレビを見ている私に「テープの端を持ってて!」と言って手伝わせながら、せっせとオムツ作りに精を出していた。タオルのオムツカバーは、くまのプーさん、(ベージュ、黄色、薄茶)で統一していた。ポチはこのオムツを、2年以上にわたって愛用した。
 
 平成14年の初夏、ポチの病気の進行と共に、飲ませる薬の量も変わっていた。ポチも下の我慢が徐々に出来なくなり、これ迄のオムツではお漏らしが溢れる様になってきてしまっていた。
 ちょうどその頃、お盆休みで帰省していた私達に、郷里に住んでいる姪が、「子供のオムツが思ったより早く取れたので、余ったオムツをポチにあげるよ。良かったら使って。」と言って、買い置きしていた赤ちゃん用オムツを、大量に持って来てくれたのであった。

 今度はその貰ったオムツを、少しづつずらして重ね、三つ折りにして(昔、布オムツを男の子に付けたように)ポチのお腹に当て、プーさんのタオルカバーで巻き付けた。オムツのバージョンアップタイプである。暫くはこれで大丈夫であった。
 しかし、更に年齢を重ねると共に、ポチの中で、おしっこを散歩まで我慢するという気持ちは、100%なくなってしまった。

 家内が家に居る時でもポチは、外に出ておしっこをしたいと要望しない。殆んど寝ている状況になっていた。
 おしめを変える回数が、急に増えてきていた。
 家内が仕事の時はオムツから溢れていた。一応ポチとしては、懸命に、家のなかに置いてあるトイレシートの上で、ちゃんとしているのだが・・・・ボトボトの重くなったオムツを、お腹にぶら下げて・・・何とも悲しい!
 
 平成15年、我が家に2歳で来てから13年目、足腰もめっきり弱くなったポチ15歳、本格的な老犬介護の生活が始まったのである。その前に、ポチの快適オムツ時代の幾つかのエピソードを・・・・
                                 つづく

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2005/09/22

第42章 ポチのお漏らし

 11歳の初冬、老犬に多い僧帽弁閉鎖不全症という心臓の病を発症したポチは、以後、症状の進行を遅らせる薬を服用しながら、病気と付き合っていく生活をすることになった。

 改めてこの病の要点を書くと、心臓の左心房と左心室とを隔てる僧帽弁が、うまく閉まらなくなる病気である。弁と、弁を操作する腱に障害が起こることで発症する。体に送るべき新鮮な血液が、弁の不調により心臓内で逆流し、体に送る血液量が少なくなってしまう。このため貧血、冷え性、運動量の低下、すぐに息が切れることになる。
 また、更に体に多く血液を送ろうとして心臓肥大になり、肥大になった心臓が気管を圧迫、咳を発するようになる。治癒は不可能で、病気の進行を遅らせ、出来るだけ永く病気と上手く付き合っていくしかない。
 服用させる薬は、利尿剤(尿を多く出させ、水を多く飲ませることで、重くなった胃の重力により心臓を下方に引っ張り、気管への圧迫を緩和する)、血管拡張剤などである。
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 獣医師のN先生は、高齢犬となってきたポチの為に、「ポチ君に負担が掛からず、副作用の無い薬から、服用を始めます。」との事であった。「ただ、咳の症状が重いので、5日間だけ抗生物質とステロイドで症状を抑えてから、薬を飲ませましょう」と言う事になった。
 
 ステロイドの効果は絶大(副作用も大きく、医師の指示通り使用することが肝心)で、ピタッ!と咳が止まった。そして、副作用の無い薬をスタートさせたのである。この薬は水を大量に飲む薬との事であった。
 確かに水の飲みっぷりはスゴイ!、水を飲むと言う事はおしっこもスゴイ!と言うことになる(本当は逆で尿を多く出すので大量に水を飲む)。
 夕方、家内が仕事から帰ると、玄関から飛び出してきて、「チ・ビ・ル!」とばかりに庭で放尿するようになった。

 こればかりは「ポチ、散歩まで我慢しなさい!」と言う事もできない。「あぁ~、すっきりした!さぁ、散歩、散歩!」と、家内を見上げ催促するポチであった。
 家族の一員として、ポチの苦しみを、まず取り除いてやりたい!その事だけを私も家内も願っていたので、ポチの元気な様子は嬉しかった。
 
 パートタイムに出ている家内には、仕事で遅くなったときは買物もせず、大急ぎで帰宅するという、忙しない日々が始まったのである。
 そしてある日、急いで帰宅した家内が目にしたものは、玄関から駆け出してきたポチのお腹から、「ポタ・ポタ」と垂れている滴であった。
 [ポチお漏らし!お漏らし!急いで庭に出て!」と家内は叫んだのであった。また暫くして気が付いたのが、寝起きのポチのお腹から「ポタ・ポタ」と・・・あぁ、悲しいかな、ポチはあちらの締りが悪くなってしまったらしい。

 お漏らしも、ポチの心臓病の進行が遅くなり、元気に過ごしてくれる為なら致し方ない。幸いなことに、臭いは殆んどない。とは言っても、やはり衛生上の事を考え、家内は犬用の紙オムツを買って来た。
 ポチは嫌がらずオムツを付けさせたが・・、尻尾を出して両面テープを剥がして、お腹に巻きつける・・、家内が「アッハッハッ!」と笑い出した。「肝心のおちんちんが、オムツからすぐはみ出しちゃう!」と笑い転げている。
 
 ポチは毛が長いので、市販のオムツでは上手くいかないようだ。
 家内が「うぅ~ん、ポチ、明日からもっと快適なオムツにしてあげるね!」と、またまた何か、アイデアが閃いたようであった。
                                    つづく 

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2005/09/17

第41章 ポチが発病した日

 ポチが、再びいやな咳をするようになったのは、平成11年の初冬である。
この年の春先にも、時々同様の咳をしていて、その後治まっていたが、冬を向え再発したのであった。

 「ゲホ~ッ、ゲホ~ッ、カア~ッ!」、「ゲホ~ッ、ゲホ~ッ、カア~ッ!」と、苦しそうであった。
 散歩中の時は、歩くのをやめ、背中を少し丸めながら、腹から搾り出すように咳をし、最後に「カア~ッ!」と痰を吐き出すようにする。しかし、痰が出るわけではなかった。
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 ポチの咳の原因が風邪でもなく、フィラリアでもないと思った私達は相談の上、獣医師のN先生に診てもらうことにし、数日後、家内がN先生の所にポチを連れて行った。
 家内は「ポチ、咳をするのをN先生に診てもらおうね。」と言ってポチを連れて行こうとした。ポチは「お泊りはいやだ。N先生の所はいやだ。」と、少し抵抗したが、「ポチ、先生に診てもらわないと、咳が治らないでしょ。さあ、行くよ。」と更に言い聞かされて、覚悟を決め診察を受けた。

 家内からポチの症状を詳しく聞かれた先生は、即座に「アー、始まったか~、この子も年だからな~」と、先生自身の中で、これと思う病名が浮んだようであった。
 「老犬に多い心臓の病気と思われますね、一応、フィラリアでないかの確認の為の血液検査と、心臓病確認の為のレントゲンを撮ります。」と先生は言われ、直ちに実行された。
 
 結果、ポチは老犬に多い心臓病の一種である「僧帽弁閉鎖不全症」を発症していることが分かった。この病気は心臓内の弁がうまく閉まらなくなり、新鮮な血液が体に十分行き渡らなくなるという。この為、血液を更に多く送ろうとして、心臓肥大になり、肥大になった心臓が気管を圧迫して、咳をするというお話であった。そして進行性の病との事であった。

 N先生は、「この病気は完全治癒は出来ません。進行を少しでも遅らせて、上手に病気と付き合いながら、老後を過ごすようになります。そのための薬を続けてもらうようになります。」と言われた。

 そしてポチは、「この薬」の影響で、後々、「おしめ」着用の生活をするようになるのである。
                               つづく

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2005/09/11

第40章 ポチの病の兆候

 平成11年初夏、ポが「ゼエーッ、ゼエーッ、カッ!」と言うような、いやな感じの咳を、時々するようになった。

 元来、アレルギー体質であったポチは、春先から初夏にかけて、花粉症になる。鼻が詰まったポチは、苦しそうに口で息をし、そして「フェ~クション!フェ~クション!」と大きなくしゃみをする。まるで人間と同じである。

 何時もの年であれば、花粉の飛ぶ季節が終わると、その症状も無くなるのであるが、この年はくしゃみ、鼻づまりこそ無くなったものの、この咳をするようになったのである。
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 私と家内は、「どうしたんだろうね、風邪でも無いだろうし、フィラリアかなあ?」「フィラリアとは違うと思うよ、ちゃんとN先生に血液検査をしてもらっているし、室内で飼っているもの。」と話し合った。
 「もう暫く様子を見て、治らないようならN先生に連れていくよ。」と家内は言った。

 その内、咳も治まり、ポチも何時ものように元気を取り戻したのであった。私達は一安心し、この咳のことは頭の片隅に収まって、何事も無く秋を迎えたのであった。

 しかし、ポチの病は、老いと共に静かに彼の心臓を蝕んでいたのである。そして、はっきりとその症状が表れたのは、この年の初冬であった。
                                  つづく
 

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2005/09/04

第39章 ポチのレインコートはゴミ袋

 ポチは散歩が大好きであった。彼が我家に来て以来、私達が泊り掛けで出かけるとき以外は、大雨であろうが大風であろうが、ポチは散歩に行きたがった。

 室内で飼うことになってからは、雨の日や、雨上がりの散歩の後は、ポチの濡れて汚れた体を、きれいに手入れするのが大変であった。
 今でこそ、雨の日にレインコートやチョッキを着せてもらって、散歩している犬を多く見かけるようになったが、当時、犬のグッズの種類は多くなくなかったのである。
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 雨の日の散歩の後、如何にして効率よく、ポチを手入れできるか、家内は色々考えていた。ある休日、家内は、「ポチッ、閃いたよ!合羽を作ってあげるよ!」と、ポチに呼びかけたのであった。
 
 決してお洒落で高価な、レインコートを作るのではなく、実用主義者の家内は、なんとゴミ袋(今と違って白い透明な袋でなく、黒い袋)を取り出して来て、ポチの体に合うように、はさみでカットした。

 「ヤッター!、完璧!どう、似合ってる?」と、ゴミ袋で作った合羽を着たポチを、私に見せた。白地に茶の斑点のポチに、黒のゴミ袋の合羽は妙に似合っていた。「うん、確かに似合っている。」と、私は答えざるを得なかったのであった。
 
 その後の雨の日、家内手作りのブラックレインコートを着たポチも、この合羽を気にいっていたように思う。
 ジーン・ケリーの[雨に唄えば」ではないが、雨の中を歩くポチのステップが、弾んでいたように見えたのは、飼い主の欲目であったろうか。

 散歩の途中、「あら~、いいアイデアね!」と声を掛けられたことも多々あった。一度はビニールの風呂敷を着せてもらっている犬がいた。飼い主さんは「ゴミ袋で上手く出来なくって!」と話されていた。

 さて、「光陰矢の如し」というが、色々な所にドライブに出掛けたり、何度も新幹線に乗ったりと、様々な経験を重ねたポチも、11歳となり、老犬の仲間入りとなったのである。
 アレルギーが出る花粉の季節が過ぎると、毎年なら元気を取り戻すポチであったが、平成11年の初夏、「ゼェ~、ゼェ~」と、変な喘息のような咳をして、一向に治らない。
 この時期以降、ポチは、徐々に老犬としての生活に入るのであった。
                                     つづく

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2005/08/29

第38章 ポチの逆襲

 ポチを連れた家内の帰省は、介護をする義父が、肺炎を併発したことにより、思いも掛けず早く、終焉をむかえた。

 当時、毎年私と家内は、梅雨明けの7月、二泊三日程度の夏山登山を楽しんでいた。家内は、義父の介護中であったが、容態が安定していたこともあり、この年平成10年も、お世話になっているN獣医師にポチを預け、白馬鑓ヶ岳、白馬杓子岳、白馬岳を縦走した。
 
 登山中に、義父の容態が悪くなることを恐れた家内は、事前に義姉を通じ義父に、登山するか否か聞いてもらったが、「登山して大いに楽しんでくれば」との返事をもらい、出発した次第であった。
 白馬岳では、ブロッケン現象を見ることができたり等、私達は大いに夏山を楽しんだが、帰宅した翌日、義父の容態が良くないとの連絡が義姉から入り、急遽家内は、ポチを連れて帰省したのであった。
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 帰省した家内から、義父の容態が落ち着いてきたとの報告があり、多少安心していたが、前述の通り、肺炎を併発し、容態が急変したのであった。そして危篤の急報を受けた私は、私と家内の実家がある京都府へ発ったが、途中義父の逝去を知ったのであった。

 私は葬儀を終え、一段落の後、一足早く帰宅したが、家内とポチは、諸雑務を終えてから帰宅する事になった。そして、家内とポチの最後の復路で、ポチの大反抗が起きたのである。
 家内の父を失った傷心を、ポチは弱気とでも感じたのか?それとも、ゲージで運ばれる彼の辛さを、最後となる復路で訴えたかったのか?・・
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 いつもは義姉に、園部駅まで送って貰うのだが、この時は、後始末に忙しい義姉の替わりに、甥夫婦と子供が、駅まで送ってくれた。
 「改札まで送ってあげるよ!」と言ってくれたのを断り、彼等を引き取らせ、家内は一人でポチを、駅前広場で散歩させた。
 いつもであったなら、この駅前広場で、厳しい義姉に睨まれながら、ゲージに入れられるポチだが、この日、傷心の家内は、ゲージに入れたポチを、改札のある2階まで持って上る気力が、湧かなかったのであった。

 改札までの階段を、この時のポチは歩いてあがった。そして、家内は、改札の前の通路でポチをゲージに入れようとするが、頑として入ろうとしない。電車の時間が迫って来る・・、ポチの抵抗は納まらない。
 猛暑の7月であった。家内は全身汗まみれになる、その汗にポチの毛がまとわりつく、体中毛だらけになった。時間は刻々過ぎてゆく、そして電車は行ってしまった。

 家内は泣き出しそうになりながら、少々手荒にポチをゲージに押し込む、しかし今度は、ゲージの上半分と下半分を結合させてある留め具が、外れてしまった。
 苦労の末ようやくゲージに入れたポチを外に出し、ゲージの組み立てをやり直す。
 この時だけは家内も、[もう~ダメッ!!」と思ったそうだ。
 次の電車に間に合わなければ諦めようと、ゲージを組み立て直し、再度ポチとの格闘の後、漸くポチの根負けとなりゲージに納まったのであった。一時間半の格闘であった。

 新横浜に着いた家内は、さすがに精魂尽きた!と言う顔をしていた。山陰線、新幹線の中で大人しかったポチにどうにか救われたとの事であった。
 家内に従順なポチが、あれだけ逆襲に転じたのは、ポチにとってゲージに入れられての旅は相当辛いものだったのであろう。
 
 現在、中に入るべきペットが、いなくなったそのゲージは、自宅の物置の中で、私の日曜大工の木材の端切れ入れとなって、余生を送っているのである。
                                    つづく

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2005/08/27

第37章 ポチのエピソードⅤ 新幹線編

 ポチにとって、新幹線、山陰線の、狭いゲージの中の旅は、大人しく利口にしていたとしても、かなり辛いものだったらしい。
 
 それは、何回目かの旅のことであった。いつものように、車で新横浜駅まで家内とポチを送り、駅前周辺でポチを散歩させ、いざゲージに入れようとした時、ポチはさっさと車に乗ろうとした。
 家内が、ポチ用の手荷物切符(ペットは手荷物扱い)を買い、ポチをゲージに入れようとしても、彼は私に絡みつき、頑としてゲージに入ろうとしない。
 ポチは私の事を、何でも言うことを聞いてくれる甘い人とみていて、私に媚びれば、何とか窮地を救ってくれると思っていた様だ。
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 家内は、「ダメッ!もっとビシッとしなければ!」と、何度か私に言った。その内、業を煮やした家内は、「もういいわ!帰って!貴方がいると、ポチがゲージに入らないから!」と言った。
 私は後ろ髪を惹かれながら、家内とポチを、新横浜の駅前広場に残して、車を発進させた。ポチは必至に、車を追いかけようとしたそうである。
 私がいなくなり、ポチも観念したのか、ささやかな抵抗の後、ゲージに入ったのであった。

 数度の新幹線での往復中に、家内とポチの、幾つかエピソードが生まれた。
 車内に空席があっても、家内はデッキにいて、ポチに話かけたり、ゲージの隙間からポチに振れてやったりしていた。そして、京都駅が近付いたときは、降車する人達がデッキに集まりだす前に、ポチの入ったゲージを抱え、開くドアの反対側のドアに行き、最後に降りる準備をした。
 ある時、開くドアの反対側にいた家内に、見知らぬ中年の女性が、声をかけてきた。「Sさんの妹さんですか?」「ハイ・・そうですが?・・」と家内が答える。なんと、その女性は、いつも山陰線の園部駅まで迎えに来てくれる、義姉の職場の同僚との事であった。

 「お姉さんが職場で、犬を連れて何回も帰省する貴女のことを、お話されてましたので・・!そうかな?と思いましたので・・・でもこんな大きな犬だったとは!」「お姉さんが感心してらした意味が、良く分かりました。ご苦労様です。」と、色々優しく言葉をかけて下さった。

 また、あるときは、新幹線が混み合い、デッキにも人がいっぱいになったとき、布で包んだポチのゲージに腰掛けていた家内は、60歳過ぎの年配の婦人に、「私もその箱の半分に、腰掛けさせて貰えませんか?」と、お願いされた。
 家内が「中に犬がいるんですが・・、犬は大丈夫ですか・・?大丈夫なら、どうぞ」と答えると、「えっ!(?_?)・・犬がいるんですか?」とビックリされた。
 婦人は、「見ていいですか?」と、カーテンの隙間から覗き、「へぇ~犬ねぇ~、まぁ、大人しい事」と、しきりに感心されたのだった。義父の看護のこと等、二人はゲージに腰掛けながら、名古屋まで話が弾んだそうである。

 他にも些細な思い出はある様だが、家内が「あの時は泣きそうになった!」というエピソードは次回に!
                                  つづく

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2005/08/21

第36章 ポチのお見舞い訪問(2)

 ポチは、家内の父のお見舞いを果たした。
 実父の介護を終えた家内には、今度は自宅までポチを連れて、帰りの旅が待っていた。

 義姉に、山陰線の園部駅まで車で送ってもらい、駅広場で散歩を済ませた後、ポチはゲージの中に入る。
 「さぁ~ポチ!ゲージに入るよ!」と、家内に声を掛けられたポチは、ささやかな抵抗を試みたが、実父に対してさえ厳しい、怖い鬼姉妹二人に睨まれたポチは、渋々ゲージに入る。
 
 山陰線でも、新幹線でも、大人しく旅を終えたポチは、日曜日の午後、新横浜駅に着いた。私は、新横浜駅で、家内とポチを出迎える。そして、ポチが入ったゲージを、新幹線の改札口で、家内から受け取ったが、相当の重さがあったことを、今でも覚えている。
 
 新横浜の駅前広場でポチをゲージから出してやる。
 famillyポチは、「ひどい目にあったんだよ!出してくれてありがとう!」とばかりに、私の顔を舐め回すのであった。
 空になったゲージを担ぎ、ポチを連れ、駐車場まで歩く。家内は背にバックパックを背負っている。自宅までのドライブ中ポチは、疲れが出たのであろうか、後部座席で熟睡していた。


【義父、義兄、義姉、甥、姪、家内、ポチ、次郎 H7年正月撮影】
 
 次の月には、建て替え中であった、義姉の家が竣工し、義姉夫妻は実家から引っ越した。
 如何に気丈な義父でも、リハビリしながらの一人暮らしは無理であり、予ねての計画通り、ショートスティ施設を利用しながら、兄姉妹全員での介護のスタートとなった。

 何年続くか分からない介護であり、家内を含めた兄姉妹全員の負担を考え合わせ、家内は月に一度ポチを連れての、新幹線を利用した、介護訪問をスタートさせたのであった。

 義父からは犬を飼うことについて、色々なことを教わった。
 「家族の一員とはいっても、犬は犬、人は人、本質が違うので、そこを、きちんとわきまえなければいけない。人様に笑われる飼い方はするな!」との義父の教訓であった。
 ポチが家内の実家に訪問した時も、義父はポチに対し、「ポチッ、ご苦労さん!見舞ってくれてありがとう!」と、毎回声を掛けてくれたものであった。

 義父は、子供達にも負担を掛けまいと、ショートスティに行くのにも、積極的であった。頑固ではあったが、思いやりのある、面倒見の良い義父であった。

 家内の、ポチを連れた、新幹線による介護の帰省は、この後3往復にて終了となってしまった。残念ながら、義父との永久の別れが、待っていたのである。平成10年の夏のことである。
                                  つづく

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2005/08/20

第35章 ポチのお見舞い訪問(1)

 新幹線と在来線を乗り継ぎ、京都府の片田舎までやってきたポチは、道中不安だらけであったであろうが、顔見知りである義姉の迎えの車の中では、後部座席の上で安心しきって瀑睡していた。

 車が家内の実家の2~3キロ手前まで来ると、ムクッと立ち上がり、尻尾が上った。義姉が後ろを振り向き、「ポチッ、家に着くのが分かるの?」と不思議がっていたそうだ。
 
 余談であるが、私達が、盆と正月に、ポチを連れて車で帰省するときにも、同じ行動をしていた。また帰省先からの復路では、東名高速の厚木I.C.手前辺りで、ポチは窓の隙間から鼻先を外に出し、鼻をクンクンさせながら、我家が近い事を感じて、尻尾を上げ、窓の外の景色を懸命に見るのであった。
 家内と「どうして分かるのかな?景色じゃ無く、やはり風の薫りだろうな」と、いつも話していたものであった。

 さて、無事に家内の実家に着いたポチであったが、実家には、先住のオス犬がいた。義姉が5年前に、一人暮らしの義父の話相手にと、買い求めてきた、柴犬の「次郎」である。
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 昔堅気の義父に、幼い頃から厳しく躾けられた次郎は、大変気の強い犬に成長していた。子犬の時の次郎は、年上のポチにじゃれ付いていたが、成長してからは、自分のテリトリーにポチが近づくのを嫌がり、唸り声を発したのであった。
 ポチとしても、「なにっ!チビのくせにっ!」と言う気持ちがあるのか、お互い仲良しにはならなかった。

 義父の症状はといえば、環境を変えない為に入院せず、義姉夫婦が一ヶ月以上点滴に付き添いで通院してくれたお陰で、呆ける事無く、気丈に立ち直ってくれていた。
 ただ、脳梗塞で視神経にダメージを受けているため、見るもの全てが何重にも見えて、忍者の如くグルグル回るのは治らなかった。

 義父は、家の中を杖を頼りに、「このドアは本物!これは偽者!」と言いながら、歩く練習をしていた。
 食事の時も、リハビリのつもりで、義父の食べ物は小皿に入れ、何重にも見える小皿から、本物を自ら見つけ、食べてもらうようにしていた。テーブルの上に置いてある箸を、手に取るときから、何度も空を掴みながら、漸く本物の箸を掴める状態であった。
 「父のため、見て見ぬ振り!」心を鬼にした、厳しい娘の特訓がつづくのであった。
                                   つづく                  

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2005/08/11

ポチの休憩室

 我が家において、ポチが誰をリーダーと思っていたか、このブログを書き始めるまで疑問であった。
しかし、ポチの色々なエピソードを思い出し、整理していくうちに、忸怩たる思いではあるが、ポチは家内を我が家のリーダーと認識していたことは間違いないようである。
 
 そこで、私の事が問題であるが、日曜日以外、昼間殆んど家にいない私のことは、ねだれば何でも言うことを聞く、執事とでも思っていたのだろうか。
 
 犬社会では、群れの中で自分の順位を認識するといわれるが、どうやらポチは、自身は二番目と思い、私のことは同等か、下位と認識していたことも間違いないようである。

 <さて、我が家もお盆休みに入ります。お盆明けにブログを再開いたします。引き続き、ご愛読の程、宜しくお願い申し上げます。>

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第34章 ポチが山陰線に乗った日

 JR山陰本線は、京都駅から山口県下関駅まで続く、近畿地方と中国地方を結ぶ日本海側の在来線である。因みにJR西日本は、現在この路線を、おしゃれな呼び方で、嵯峨野線と呼称している。
 
 ポチを入れたゲージを抱えた家内は、やっとの思いで京都駅の山陰線のホームの端にたどり着いた。更に乗車位置まで家内は歩く。
 揺れる不安定なゲージの中で、ポチも体のバランスを取るため、懸命に足を突っ張るので、家内の首筋及び肩には、一層強い負担が掛かった。
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 乗車位置まで来てゲージを下ろした家内は、電車に乗るまでの間、再び紙コップに水を入れ、それを変形してゲージの隙間からポチに与えた。ポチは今度はその水を飲んだが、半分程の水は下にこぼれた。
 ポチはそのこぼれた水も舐めた。
 やがて、入って来た快速電車に乗り込んだ家内であったが、席には座らず、入り口付近の横の床にゲージを下ろし、下車駅の園部まで立って行くことにした。在来線快速電車のため、車内は結構混んでいたからである。
 
 途中、停車駅に着く度に、電車に乗り込んで来る人達は、ポチの入ったゲージ(見た目は結構大きなゲージである)を見て、「おっ、何だこれは、あっ犬が入っているのかっ」、「こんな大きな犬を、電車で運ぶのか、」、「まあ、可哀相に、こんな狭い所に容れられて、」などといった感じで、家内とポチに無遠慮な視線を送っていた。子供達は、ポチを見て、「あっ、犬だ~、可愛い~」と黄色い声を張り上げていた。家内は、周りの人々に気を使いながら、京都から約1時間、漸く園部駅に着いたのであった。

 園部駅に着いた家内は、体の前と後ろに荷物に挟まれたようになりながら、気力を振り絞り階段を昇って、改札までたどり着いた。
 田舎の駅のことであり、精算金を直接駅員に渡さなければならなかった家内は、一旦ゲージを下に下ろした。
精算後、家内はゲージを再び持ち上げることなく、両手で押しながら改札を抜けたのであった。

 改札を出た家内は、そこでゲージを開けポチを出してやった。狭い所からやっと開放されたポチは、尻尾を振りながら喜びを体全体で表し、家内に擦り寄ってきて、顔を嘗め回したのであった。
 家内も「ポチお利口だったね!」と愛おしさ一杯で、ポチの頭を撫でながら抱きしめてやった。そしてポチにリードを付け、軽くなったゲージを片手で持ち、駅前広場への階段を駆け下りたのであった。

 駅には義姉が車で迎えに来てくれていて、ポチに対し「ポチッ、お帰り、ご苦労さん!」と声を掛けてくれた。新横浜から一回も声を出さなかったポチは、義姉のねぎらいの声を聞いて初めて「ウオン!」と鳴いたのであった。

 水を飲み、駅の周囲をぐるっと散歩したポチは、家内と共に、義姉の車で義父の待つ家内の実家へ、更に小1時間のドライブをする事となったのである。安心したポチは、後ろの座席で漸くリラックス出来た様であった。
                                       つづく 

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2005/08/08

第33章 ポチが新幹線に乗った日(3)

 家内は、ポチを入れたゲージを駅弁のように首から吊り下げ、背中にはリュックを背負いながら、新横浜駅の新幹線の改札を抜け、ホームへ上るエスカレーターに乗った。ポチが入ったゲージは約16kgにもなり、家内にとって想像以上に重いものであった。

 ホームまで上った後、ゲージに付けたベルトを首から外し、ゆっくりと床に下ろした。この時、揺れる不安定なゲージの中で、ポチも懸命に足を突っ張り動くので、ゲージをゆっくり下ろすためには、スクワット状態で腰を落とすような姿勢になり、思いも掛けない力が要るのに家内は驚いた。スタートしたばかりなのに「こりゃぁ~この先、気合入れていかねば!」と家内は思ったらしい。
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 早朝なので乗客は比較的少なかったが、それでも「なんだ?こりゃ?」と横目でチラチラ見られる。新幹線に中型犬を持ち込もうとする人物に対し、好奇の目を向ける人達の視線を、家内は痛い程感じていた。
 「早朝の新幹線の中で、迷惑を掛けません様に!」必至で念じていた様である。

 やがて新幹線がゆっくりとホームに入ってくる。再度ゲージを持ち上げ、他の乗客が乗り込んだ後で最後に乗り込み、デッキにゲージを下ろした。ポチが初めて新幹線に乗った!・・と言うか、無理やり乗せられた日である。
 「やったぁ~!」デッキは家内とポチだけである。ポチはゲージに入ってから「クウォ~ン」とも「キャィン」とも一言も声を発していない。

 家内は、「ポチお利口だね!お利口だね!」と、ゲージの隙間から指でポチに触れながら、ポチを褒めまくった。ゲージの隙間から、水を入れた紙コップを変形させて差込み、ポチに飲まそうとしたが、この時は飲もうとしなかった。ポチも暫くしてデッキの様子に慣れたらしく、お座りの状態でリラックスしてくれたようであった。

 漸く落ち着いた家内は、リュックの中から古いカーテン生地を出してゲージに掛けてやった後、ゲージの上に腰を下ろし本を読める状態となった。そして、時折ポチに声を掛けてやるのであった。
 検札に廻ってきた車掌さんが、大人しくしているポチの様子を見て、「車内には空席が有りまよ。中でゆっくり座って下されば。」と勧めてくれた。ちょうどデッキから入ってすぐの席が空いていたので、ポチと共に移動して、リラックスした気分になった途端、ポチもその雰囲気を感じたのか、前足で遠慮気味に「ガリ、ガリ」とゲージを掻き、「出してくれ!」と訴え始めた。
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 家内が、「ポチだめよ!静かにして!」と小さな声で言ったが、「ガリガリ!ガリガリ!」と前足の動きは更に早くなってきた。静かな車内の中で家内は居た堪れなくなり、即デッキに戻ったそうである。
 デッキに戻ったポチは、名古屋駅に着いた時、周囲が乗降者でバタバタした時も静かなままで、無事京都駅迄辿り着いたのであった。家内はゲージを持ち上げ、「さぁ~ポチ行くよ!」と、新幹線を降り、山陰線ホームに向ったのであった。

 山陰線(現在はおしゃれに、嵯峨野線と呼ばれている)ホームは、当時「0番線」となっていて、京都駅正面(北口)から更に西に外れた位置にあり、八条通りに面した南口側の新幹線ホームからは、駅を横断するという相当長い距離がある。
 その上、山陰線のホームに下りるのに当時はエスカレーターが無かった(今はある)。

 体の前にあるゲージのため前が見えない状態の家内は、階段を転げ落ちないよう片手で手摺を持ちながら、首に掛けたベルトともう一方の片手でゲージを支え、反り返った状態で一歩一歩下り切って、漸く山陰線のホームに着いたのであった。

 この後何度か、ポチと共に新幹線通いが続いたが、後々家内は、この新幹線から山陰線までの距離が、肉体的に一番辛かったと言っていた。そして、この後、小1時間程の山陰線の旅が始まった。
                                       つづく

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2005/08/04

第32章 ポチが新幹線に乗った日(2)

 ポチを新幹線に乗せるため、出発前日に、ポチをゲージに入れる訓練を、自宅で始めた家内であったが、犬小屋にさえ入らないポチが、そう簡単にゲージに入るはずもなく、彼と家内とのバトルがスタートしたのである。
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 リビングの真ん中に、麻紐で頑丈に補強されたゲージを置き、ポチをジャーキーでゲージの前まで誘導しようと試みた。しかし、ポチは、いつもと違う雰囲気に警戒し、簡単に家内の作戦には乗ってこない。
 今度はジャーキーをゲージの奥に置き、家内はリビングから出て、外からポチの動きを窺う。ジャーキーを食べたいポチは、ゲージの回りをグルグル廻りながら、前足でゲージをガリガリ、ガリガリと引っかく。
 暫くして、ようやくポチがゲージの入り口に頭を突っ込んだ。(やったー!)と家内がニンマリしたのも束の間、ポチは頭だけゲージに突っ込んだ状態で、前足を思い切り伸ばし、ジャーキーをゲージの外まで掻き出してしまった。大好きなジャーキーをゲットしたポチは、両前足で抱えて、美味しそうに食べ始めた。失敗である。

 再度、ゲージの奥にジャーキーをセットする。今度は、家内は知らん顔をしそっぽを向きながら、ゲージの側で待機する。ポチが用心深くゲージに頭を入れた瞬間、家内はポチのお尻に手を掛け、ゲージに押し込んでしまった。
 「何をするんだよ!」とポチは、家内が閉めたゲージの入り口を、前足ででガリガリ掻き始めた。家内は「ゴメンねポチ!お願いだから大人しく入る練習をして!そうでないと、N獣医師(せんせい)の所でお留守番になっちゃうよ!」と、ゲージの隙間から指を入れながら、ポチの背中を擦ってやっていた。
 ポチも家内をじっと見ながら、その真意を感じようとしていた様子であった。

 さて今度は、ポチを入れたゲージを、家内がどの様にして持ち運ぶかである。ゲージ自体の重さは約3kg、そしてポチの体重は約13kg、合計16kgの重さになるのである。
 ポチ自体を抱くのは、容易なことだが、緊張して動き回るポチが入ったゲージを持ち上げるのは、女性には大変なことであった。

 私は「やはり無理だよ!出来るだけ面倒を見て、どうしても時間が取れない時は、N先生の所に預けるから、ポチは置いていけばいいよ。」と言ったが、家内は「父の介護生活は、何年続くか分からないので、今後のためにも、一番いいと思う方法には、1回は挑戦してみないと」とギブアップしない。
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 今度はボストンバックに付属していたショルダーベルトを見付けてきて、これをゲージに付けてくれ言い出した。どうやらベルトを首に掛ける為らしい。一旦ポチをゲージから出し、ベルトを付け足した。
 「うん!これならポチが中で動いても、振り回されにくいよ!」と家内・・・。再度、ポチをゲージに入れて試そうとするが、ポチは入ろうとしない。こんな状態で明日大丈夫か?・・不安であった。家内は「明日が勝負!」と・・逞しい。

 翌朝家内は、ゲージを提げた前だけが重いと、体のバランスが取れないとのことで、自分の必需品・ポチの水入れ・ポチの餌入れ等を詰め込み満杯になったリュックサックを背負うことにしたのである。
 新横浜から京都まで、朝一番の新幹線に乗せるべく、私は出勤前に、家内とポチを新横浜駅まで車で送って行った。
 家内がポチの切符(ポチは手荷持扱い)を買いに、窓口へ行っている間、私は駐車場付近で、ポチを散歩させてやった。家内が戻って来た。「さぁ~ポチ!出発だ!」家内がゲージを支え、私がポチを入れる役となった。当然にポチは、ゲージに入るのを嫌がった。
 
 私は最悪の場合、ポチを自宅に連れ帰る覚悟があったので、無理に押し込む事が出来ない。家内は「もっと真剣に押し込んでよ!!」と必死である。漸くポチも二人のパワーに根負けして、ゲージに入ってくれた。改札口までゲージを運んだが、男の私が持ってもかなり重かった。それを家内が体の前に提げ、リュックを背中に背負う。義父への愛情、私やポチへの思いやり!!・・頭が下がる思いであった。と同時に、腹を決めたときの女性の逞しさを実感したのであった。
 
 「ポチ!新幹線の中で大人しくしていてくれよ!」私は祈る思いで、ホームへと上っていく家内の、背中の大きな赤いリュックを見送ったのであった。
                                      つづく

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2005/07/29

第31章 ポチが新幹線に乗った日(1)

 平成10年の春から夏にかけて、ポチは家内に連れられ、横浜・京都間を計4往復、新幹線に乗った。小型犬でなく中型犬が新幹線に乗ることは珍しいことであるが、そのいきさつは以下のごとくであった。

 この年が明けて間もなくのことである。84歳で一人暮らしであった家内の父が、京都府三和町の自宅にて脳梗塞で倒れた。
 義父はそれより12年前、昭和61年の暮、72歳の時に、最愛の妻を心筋梗塞により、わずか3日間の入院で失っていた。以後、独立していたり、嫁いでいたりする子供達の世話を受けずに、我が家が一番と、気丈にも一人暮らしを続けていた。
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 義父が脳梗塞で倒れた時は、近くに嫁いでいた家内の姉が自宅の建て替えの為、半年前から夫婦して実家に移り住み義父と同居中で、発病の発見も早かったのであった。
 
 義姉から父倒れるとの連絡を受けた家内は、取り急ぎ実家に向った。私はポチの世話をする為、仕事を早めに切り上げ、状況によっては直ちに動けるよう対応することにした。因みに家内の故郷京都府三和町は、丹波地方に位置し、黒豆、栗、松茸の産地として有名である。
 不幸中の幸いで、義父は視神経に障害は出たが直ぐに命に係わるという事ではなく、一安心した次第であった。
 
 家内が留守中のポチは、家内が何時帰って来るのか気になるらしく、小さな音にも耳を澄まし熟睡していない様であった。数日後家内が帰宅し、ポチのお腹を擦りながら義父の症状を語り始めた。
 義父は視神経の一部がやられ、本人曰く「一つの物が何重にも見え、それが忍者の様にグルグル回っていて、何が何だか分からない」との事である。病院のアドバイスは、この症状で入院し環境が変わると、ボケてしまう可能性があるので、症状が落ち着くまで毎日点滴に通院し、今の病状に本人が慣れるのを家族がサポートするのが一番良いのでは、ということであった。

 同居している義姉家族の協力で、義父は自宅から1ヶ月以上、点滴を受けるため毎日通院する事が出来たのであった。
 義父の症状は少し落ち着いたが、義姉夫婦にも仕事があり、義姉夫婦に全ての負担を掛けることもできないので、家内も含めた子供達4人全員で介護しようと言う事になった。
 家内もパートの仕事があり、介護が可能な日数を考えて、土曜日から翌週の日曜日までの8日間を、1ヶ月に1度の割で帰省する事になった。

 さてポチをどうするか?私達は色々検討した。家内1人の運転で車でポチを連れていくか?ポチを近くの獣医師に毎回預けるか?私が仕事を調整してポチの面倒を見るか?(3~4日なら可能だが・・8日間数度となると・・)、  その日は結論が出なかったが数日後、家内が「ポチをゲージに入れて、新幹線で私と一緒に連れて行くのが一番いいんじゃない?」と、とんでもない事を言い出した。

 「犬小屋にも入らないポチが、ゲージに大人しく入る筈無いじゃないか!」「やってみないと分からないわよ!」
 ポチがスムースにゲージに入ってくれて、新幹線の中でも静かにしてくれるのであれば、その方法がポチの為にも、私の為にも、経済的にもベストと力説する家内に負け、取り合えずゲージを買い挑戦する事にした。

 13kgのポチを入れ持ち運び出来る様に、麻紐でゲージを壊れないよう補強した。
さぁ~ポチは、ゲージにすんなり入ってくれるか?私達とポチとのバトルがスタートしたのであった。
                                      つづく

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2005/07/24

第30章 無念!ポチ去勢される!

 夕食後、ポチは私達の側で過ごすのが日課であった。ソファでくつろいでる私達の側でポチは、家内の膝に寄り掛かり、ゴロリと寝転ぶのが好きであった。
 
 その内に、お腹を擦ってくれと、寝転んだまま前足で、私達の足をカリカリと擦る仕草をするのである。テレビに見入っている時の私達は、ソファに座ったまま足で、ポチのお腹をそっと擦ってやるのであった。このポーズは私達にとって、腹筋を鍛えるエクササイズとなり、結構きつかったのである。
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 また私達が、ポチのお腹を撫ぜないで無視していると、「もうっ、サッサと撫ぜてっ、何をぐずぐずしているの?」というように頭を持ち上げ、私達の顔に眼を飛ばすポチであった。
 「生意気!ポチ、なにその態度は!」と、家内は譲らず無視しつづける。するとポチは「お願い!お願い!」とばかりに後ろ足で立ち上がり、家内の膝に寄っ掛かりながら、両前足で家内の手をカリカリと掻いて、お願いポーズで催促するのであった。

 そこまでやれば無視できずポチの勝ちである。
 家内は「ヨッコラショ!」と、ソファの座面部分を背もたれにして床に座り込み、ポチの大好きなマッサージタイムが始まるのである。

 冬毛の時は見逃していたが、夏に向ってお腹の毛が薄くなったとき、家内がポチの異変に気が付いた。
 睾丸の1個がもう1個に比べ極端に大きくなっていたのだ。ポチの様子に変わりはなかったが、やはり気になってN獣医師に診てもらう事にした。

 先生は「うぅ~ん、ポチは9歳かぁ?念の為に手術しとくかなぁ。」と決断された。このままで、悪影響を及ぼさないかも知れないが、念のためということであった。「去勢手術自体は難しいものではありません。」との先生の言葉で、私達も後々悔やむことが無いよう手術をお願いする事にした。

 朝にポチを預け、夕方には迎えにいける手術であった。数日間、飲み薬を飲ませ、1週間後に抜糸となった。
「暫くは紫色の状態が続きますが、後は日にち薬ですから。」と先生はおっしゃったのであった。
 無念!ポチ!9歳の夏で去勢となったのである。
                                      つづく

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2005/07/22

第29章 ポチの友達・ゴメちゃんの思い出

 ポチには散歩中に出会う犬の友達が何匹かいた。ポメラニアンのオスで「ゴメ」という名の犬とは、お互い大変に気が会っていた。
 
 我が家と同じくゴメの飼い主さんも、ご主人と奥さんが交代で散歩をされていた。
 家内とポチが散歩をしている時、奥さんと散歩中のゴメがポチを見かけると、ダッシュで駆け寄ってきて、ひとしきりポチとじゃれ合った。その様子を見ながら家内と奥さんは、犬についてのよもやま話をしていたようである。
 
 私がポチを連れていて奥さんとゴメに会うと、奥さんは「ポチ!今日はお父さんと一緒だね!」と必ず声を掛け下さった。その時はゴメもポチも「ヨッ!今度またな!」といった具合で、お互い軽くスキンシップして通り過ぎていた。
 ゴメがご主人と散歩の時、ポチを連れた家内が何かしら声を掛けても、ゴメはお父さんの前では「キリッ!」と、優等生として清ましていたそうだ。そして私とご主人の場合は、男同士軽く会釈する程度で、犬同士も素っ気なかった。
 image02020105
 そんなゴメが癌に侵されたのである。食欲が無くなり、歯か顎を気にしている様子だった。「虫歯かな?」と思われ獣医師に彼を診てもらったところ、顎の所に瘤が巣くっていたのである。
 取り合えず手術を受けたが、獣医師からは「手術をしても、この癌では残念ながら余命は6ヶ月程でしょう。」と、宣告されたとの事だった。
 手術後のゴメは、顔の相こそ少し変わったが、奥さんと一緒の場合は、相変わらずポチとじゃれ合い元気そうであった。「元気になって良かったね!ゴメちゃん!」という会話が、家内と奥さんの間で続いていた様だ。

 その日、ポチが家内と散歩していたときのことである。突然ポチが、いつもの散歩コースより一本手前の道を、自ら歩き始めたそうだ。その道をしばらく歩くと、向こうの方から奥さんが「ポチィ~!」と声を掛けながら歩いて来られたそうである。ポチも奥さんを目指して、尻尾をフリフリ駆けていった。

 奥さんはポチの前に座り「ポチ、ゴメちゃん死んじゃった!」と、彼の頭を撫でながら泣き出された。
 ポチはその悲しみを慰めるが如く、奥さんの頬から溢れ出る涙を嘗め回していた。
 奥さんはポチの首に手を回し、「有り難う!有り難う!」とポチを抱きしめられていた。
 
 ゴメは獣医師の宣告通り、手術後6ヵ月で天国に旅立って行ったのである。家内と奥さんは「今日、どうしてこの道を、ポチが選んだのか?」「ポチの奥さんへの行動?」「“犬”って不思議!凄いですね!」、奥さんが落ち着きを取り戻され、いつもの様に話が弾み出すと、ポチも安心したのか、「さぁ行くよ!」と日常の散歩コースに戻ったのであった。
                                      つづく

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2005/07/18

第28章 ポチは前科一犯!?

 その事故は突然に起こった。ポチが家内に連れられて散歩の途中、家内の知人の女性の手を咬んだのである。

 散歩に夢中のポチの前に、突然彼女は坂の上から駆け下って来た。彼女はそれまで、犬が嫌いなはずであったが「我が家でも、今度犬を飼い始めたのよ!」と言いながらポチの目の前で急停止して、坂の上手からサッと手を伸ばした。ポチの頭を撫でようとしたのである。

 「ダメッ!手を出しちゃ!」、家内が声をあげる間もなく、ポチは突然頭上から振り下ろされた手に驚き、彼女の手の平を咬んでしまった。image02040108
 「大丈夫っ?!」、家内の問いに知人は「大丈夫、ちょっとした傷だから!」と答えたが、傷の回りを押すと血が出て来ていた。
 家内は、取り合えずポチを自宅に連れて帰り、すぐに彼女のお宅に寸志を携え、お詫びと傷の具合を伺いに行ったが、まだ血が出ているとの事であった。
 家内は知人に、すぐお医者さんに診てもらうようお願いし、彼女を外科病院迄お連れした。
 診断の結果、犬の牙には雑菌が多いので、消毒の為に切開し、二針縫うという事故になってしまった。
 
 怪我をさせてしまった知人に申し訳ない気持ちと、「なんで?どうして?」と、防ぐことが出来なかったアクシデントに、家内はショックを受けていた。
 知人が通院し始めた頃の、知人の送り迎え、その後も抜糸まで、彼女の診察券出し等、ポチの名誉挽回の為、家内は誠心誠意行動したのだった。この事故の件で獣医師のN先生にも相談した。先生曰く、「リードを付けた散歩中の犬に、突然手を出された相手にも落ち度はあるでしょう。」との事だったが・・・一応正規の手続き通り、家内は保険所にも連絡をした。

 後日、保険所の職員がポチを観察しに来られた時、家内が留守だったので、ポチとはベランダ越しの対面だった。その足でN獣医師を訪れ「おとなしい犬ですね、被害者の方が何も言って来られなければ、犬には問題ないでしょう。」と伝言して下さっていた。
 知人も怪我が全快したとき、「色々かえって、お世話になりました。」と菓子を携え、我が家を訪ねて下さった。

 私も家内も本当に色々と勉強になった事件であった。
 それ以後、毎年1度保険所から郵送されて来る、犬の登録と予防接種のお知らせの葉書に、ポチの前科(咬み歴1)が備考欄に記載されてくるようになったのである。
                                      つづく

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2005/07/16

第27章 ポチのお見送りとお出迎え

 ポチはアレルギー犬になったり、胃腸が弱かったり、さらに老犬になってからは心臓肥大になったりと、色々体に変調をきたし、私達をハラハラさせる犬であった。
 
 しかし、ポチは日々の生活の中で、私達を癒してくれる大切な存在であったことも確かである。私達が癒されるポチの行動の中で、私達をお見送りしてくれることと、お出迎えしてくれることは、最も癒しを感じる彼の行動の一つであった。

 ポチの散歩は私の出勤と同時に始まる。私が出かけるのに合わせ、ポチも家内に連れられ朝の散歩となる。
 朝食を済ませ、出勤前に用足しのためトイレに入ると、ポチがトイレのドアの前まで来て、「ウォン!ウォン!」と短く「トイレから早く出ろ」と私に催促する。「あなたが出かけないと、ボクも散歩に行けないよ!」と言うわけである。これではまるで、ポチがシープド・ドッグで私は羊か、と、家内と笑った。

 私が駅に行く道とポチの散歩コースとの岐路で、「じゃーね、行ってくるよ」とポチに声を掛ける。
 彼は2~3回尻尾を振った後、さっと自分のコースへ体を向け「さっ、僕は散歩、散歩!」とばかりに、弾んだ足取りで家内と共に歩いて行く。
 私はいつもポチの方を振り返るのだが、彼は全くこちらを振り返ること無く、朝の日課の40分コースへと出かけるのであった。

 散歩が終わり暫くして、家内が週2、3日のパートタイムの仕事に出かけるときは、ポチは私が出かけるときよりも、数段手厚いお見送りをしていた様であった。
 「ポチッ、行ってくるよ!」と家内が玄関から声を掛けると、ポチはサッと2階へ駆け上がり、家の前の道路に面したベランダに出た。そしてベランダのフェンスの隙間から顔を出し、家内が道路の先の角を曲がって姿が見えなくなるまで、見送っていたとの事であった。pochi_7
 家内の帰宅時、やはりポチはベランダに出て、頭をフェンスから出しながら家内をまっていた。そして家内が疲れた足取りで家の先の角まで帰って来た時ポチは、「ウォン!」と小さく声にならない声を上げて、家内に「お帰り」の合図をしていたという。

 家内が「ポチ、ただいま」とベランダを見上げ声を掛けると、フェンスから慌てて頭を引っ込め、大急ぎで玄関めざして走る。家内が玄関のドアを開けると、尻尾をフリフリ、階段を吹っ飛んで降りて来たとの事であった。
 家内の顔を見て、散歩に行けると思い安心するのか、水をがぶ飲みしてから、着替えをする家内と玄関とを、忙しく往復して「散歩!散歩!」と催促したのだった。

 ポチの3回目の散歩は、私の出迎えであった。我が家は相鉄線の二つの駅のちょうど中程にあり、日々電車の乗り換えの都合で、下車駅はこの二つの駅のどちらかになるのであった。
 駅に着くと私は、家に帰るコールをする。そして家内がポチを連れて私の出迎え方々散歩に来るのであった。
 家を出て直ぐに家内は、ポチに向って私が降りた駅名を言う。するとポチは、二つの駅への分かれ道を、左、右間違えることなく、駅に向ったそうである。

 帰り道の中間で、ポチは私の姿を見つけると、散歩は終わりと、くるりと180度回転して、さっさと帰途に付くのであった。
 私が帰って来るのは、ポチにとって当たり前なのか、クールに出迎え尻尾さえ振ってくれなかった。
 ポチの出迎えの態度は、私と家内とでは明らかに違っていた。それは我が家内での力関係なのか?
 いまだに私は、ポチが私と家内のどちらを上位と思っていたか疑問を持ったままである。
                                       つづく

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2005/07/14

第26章 ポチはアレルギー犬(3)

 ポチがくしゃみをする、「ヘェ~クショ~ン、ヘェ~クショ~ン」。ポチは、何とも大胆で人間そっくりなくしゃみをする犬であった。季節は11月の終わり、ポチの花粉アレルギーが始まったのである。
 今でこそ、犬にも花粉アレルギーがあるのは常識となってきているが、当時は私達も知らなかった。ポチがくしゃみをするようになった当初は、風邪を引いたのかと思っていたものである。
 image02131122
この時期ポチは、寝ていても突然「ムクッ」と起きあがり「グゥッ、グゥッ」と一生懸命に鼻を啜る。が、完全に詰まってしまっていてとても苦しそうであった。暑い時ならば「ハッ、ハッ、」と口で呼吸するが、気温が低い状態では当然鼻で呼吸し、口ではしない。
 鼻の詰まったポチは、口で呼吸をするのが苦手であった。家内は「おバカさんねぇポチ、鼻が詰まっているんだったら口から吸えばいいでしょう!」と、何度かポチの口を手で開けてやり教えていた。
 
 その内「グッグシュ~ン、フェ~ックショ~ン、」と、連発のくしゃみが始まるのである。家内は何度も、ポチの鼻水のシャワーを顔に浴びる破目になった。寝ている状態でも「ヘェ~クショ~ン」と大きく頭を縦に振り、顎を床に思い切り打ち付ける。ポチにとっては何が自分に起こったのか理解できないらしく、顎をしたたかに打った時は「なぜ?なぜこんな目にあうの?」と、さも私達が彼に何かしたかのように、上目使いで私達に「ガン」を飛ばすのであった。「濡れ衣だよ」と、あまりのポチの表情に、可笑しいやら気の毒やら複雑な気分であった。
 
 しばらくするとポチは、うつ伏せに寝ながら顔を床に付け、前足で懸命に目を擦り始めた。ポチは白目の部分が少ない犬であったので気が付かなかったが、見ると目が真っ赤に充血していた。私も家内も杉花粉アレルギーで毎年苦しんでいるが、ポチも全く人間と同じように、秋の終わりにアレルギーで苦しむ犬になっていた。
 
 獣医師のN先生も、「可哀想だけど、薬に対してもアレルギーが出るポチなので、飲み薬は止めておきましょう。」と、目薬だけを下さった。約1ヶ月の間、ポチにとって寝不足になる辛い時期であった。
                                    つづく

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2005/07/12

第25章 ポチはアレルギー犬(2)

 ポチは蚤取り首輪に対するアレルギーの他、皮肉にも、犬を守るべきはずのフィラリアの予防薬に対しても強いアレルギー反応を示した。当初はそうでもなかったのだが、ある時期から顕著に表れるようになったのである。

 フィラリアの薬は5月から11月までの間、月に1回飲ませる。その時も、いつものように家内は、ウインナーの中に薬を埋め込みポチに与えたのであった。暫くするとポチは、蚤取り首輪を付けた時と同じように、体を震わせながらグッタリとしてしまった。またしてもN獣医師の診療所に、ポチを運び込む破目になってしまったのである。
image02091116 この時は点滴でなく、先生は薬で処置して下さった。翌月からは、フィラリアの薬を飲ませる30分前に、アレルギーを止める薬(小粒の錠剤)を与えねばならなくなる。それでもポチは、フィラリアの薬を飲んだ後2~3日の間、軟便を排泄するようになったのである。

 この後ポチは、家内から優しい声で「ポチ、ウインナーよ」と言われながら与えられる、フィラリアの薬が埋め込まれたウインナーに対して、徐々に警戒心を持つに至った。
 前歯で用心深く噛みながら、埋め込まれた薬を上手に吐き出し、ウインナーだけを食べるようになったのである。
 
 家内は薬に肉を巻いたり、竹輪の中に入れたり、色々ポチの警戒心を解く工夫をしていた様であったが、ポチは口の中で何度か薬を噛んだ経験を得て、とても勘が鋭くなり、上手にウインナーだけをゲットする様になった。
 数年間家内は、フィラリアの薬を与えるシーズンともなると、それをポチに飲ませるのに大変苦労していた。

 ポチが老齢になり心臓等の病気が出て来てからは、N先生と相談した結果、体に負担が掛かり過ぎるフィラリアの薬はポチにとって命を縮める要因になり、また室内犬なので蚊に刺される機会も少ないとのことで、止めましょうということになったのである。

 「ぽち!どうしたの?」今度はクシャミの連続である・・。
                                      つづく

追記
  ポチの写真のストックが、底をついてきました。以前の記事で使用した写真を今後再度使用します。
  ご了承ください。

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2005/07/09

第24章 ポチはアレルギー犬(1)

 ポチはアレルギー体質の犬であった。当初外で飼っていたときには感じなかったが、室内犬となってからは、だんだんとひ弱なお坊ちゃま犬になってしまった。
 
 毎年、蚤の発生するシーズンになると大変である。自分の尻尾を気が狂った様に追いかけてくるくる回り、見ているこちらが目が回るほどである。
1
 ある年家内が、「蚤取り首輪」を買って来てポチに付けた。ところが、蚤が死ぬのではなくポチがあの世に行きそうになったのである。
 体をガタガタと小刻みに震わせ、グッタリと頭も上げられない状態になっしまった。診療時間外であったが急ぎ獣医師のN先生のところに、駆け込む破目になってしまった。

 先生は、ポチの状態を見て、すぐに点滴をされた。暫くすると、ようやくポチの目に生気が戻り私達はホットしたのであった。蚤取り首輪一つであんなになるのか?とビックリさせられた出来事であった。
 100%生薬の除虫菊から造られた「蚤取りスプレー」も使っては見たが、今度は皮膚炎になり駄目であった。

 ポチが痒がったときは、原始的に「蚤取り用の櫛」で剥いてやるのが一番であった。剥いている間ポチは、気持ち良さそうに仰向けに寝転び、前足や後ろ足を、さも自分で掻いているように、バタバタと動かすのであった。
 因みに家内が剥いていて蚤がいないときは、「ポチ、 蚤どこにもいないわよ!」となって、やおら櫛の扱いが雑になるらしく、毛を引っ張られるポチは「キュィン」と遠慮気味に悲鳴をあげていた。
 
 家内が剥く場合ポチは「もういいよ、ありがとう、もういいよ」というように、自分の態度で終わりを告げるのだが、私が剥く場合では、私が「ハイ、ポチもう終わり」と、お腹をポンポンと叩いてやって手を止めると、「もっと!もっと!」と、前足で私の手に合図をして来るのであった。
 家内からはきつい一言、「なめられているのよ!」であった。
 
 そしてポチは、痒み止めに、塗り薬の「ムヒ」を塗ってもらうのが大好きであった。家内が「ポチ!」といって「ムヒ」を見せると、「早く塗って!」とばかりに、ゴロリとお腹を見せた。
 塗ってもらっている間、気持ち良さそうにじっとしていたポチであった。ポチは他にも色々と、アレルギーが出てくるのであった。 
                                       つづく

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2005/07/07

第23章 ポチはお騒がせ犬

 ポチの散歩については、私達夫婦間でその役割を決めていた。平日の散歩は基本的に家内の日課、そして、休日、土曜日の夕方、平日でも帰宅の早い日は私の日課であった。

 その日私は、仕事先からの直帰で早く帰宅したため、ポチの散歩を受け持つこととなった。散歩に出かける直前に家内から「手術した所、最近良く舐めているから、気を付けながら散歩して」と云われていた。
 ポチが右後足の中指を切除する手術を受けてから数年経ってはいたが、手術跡が気になるのか、時折足先を舐めていたのである。
pochi_9
 そして、散歩の途中急にポチの歩き方がおかしくなった。足を引きずるように歩く。私は「ポチ、足どうしたんだ」と立ち止まり、しゃがんで見てやるのだが、夕暮れで暗いのと老眼が始まっていてはっきりと見えず、要領を得ない。暫くして、またゆっくりと歩き出したが、今度は突然道端に寝転んで、手術した箇所を舐め始めた。

 私は携帯電話で、家内にポチの異変を連絡した。幸い家の近くだったので家内も駆けつけ、私より良い目でポチの足をチェックした。薄暗い中で調べたところ、どうやら指を切除した傷跡から、肉球が飛び出してきているみたいとのことで、そのまま二人してポチを抱え、N獣医師の所へ運び込んだのである。

 私は待合室で待機し、診療室に入った家内がポチが動かないように保定し、N先生に診てもらう。
 「う~ん、・・傷跡が化膿したかなぁ~、ちょっと切開してみるから、」といって、飛び出ている肉球らしきものにメスを入れられたが「あれ~、硬いなぁ~・・・ん?、何だ?これは、ピンセット取って!」・・・と助手の女医さんに言われた。そしてピンセットに挟んで、あるものを取り出された。「石じゃないし・・、なんだぁこりゃ?あ!こりゃドロップの飴だ!!」
 
 大分舐められた後の、リング状になったドロップを、誰かか落としたのだろう。それが縦向きに、ポチの指の切除跡にスッポリとはまり込んで、両側から指で挟み込まれる形になり、取れなくなっていたのである。当然色も真っ黒になっていて、見ただけでは正体がなんだか、分からなかったのである。
 「まぁ~よくこれだけピッタリとはまり込んだもんだねぇ~」「粘つくから気持ち悪かったんだろうねぇ」と診療室から先生達の笑い声が聞こえてきた。

 診療を終え、待合室に出て来たポチは私を見上げて、「あぁ、すっきりした、早く、帰ろ!帰ろ!」と催促するのであった。先生は「これじゃあ、お金は頂けませんよ、」と笑っていられた。私達も笑顔で帰途についたのであった。
                                     つづく

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2005/07/06

第22章 ポチが好きになった犬「チャコ」

 ポチが特に好きになった犬は2匹いた。一匹は前述の柴犬「マリ」で、もう一匹は雑種犬の「チャコ」であった。 チャコはポチよりかなり年上で、お姉さんというより、どちらかというと叔母さんというニュアンスであった。
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 チャコの特筆すべきは、体のつくりはポチに比べ小ぶりであったが、白地に薄茶の斑の毛並みといい、顔・体の形といい、身のこなしといい、遠目には見間違えるほどポチに似ていたことである。事実、散歩中にポチを見た見知らぬ人から、「あれっ、チャコじゃない?」と声を掛けられたことも、数度かあったと記憶している。

 ポチとマリは双方が惹かれあっていたが、ポチとチャコについて言えば、ポチのチャコに対する愛情が、チャコのポチに対する愛情よりも、大いに勝っていた。結果、遠くにチャコを見つけたポチは、懸命にリードを引っ張り、少しでも早く、少しでも近く彼女に近づきたいと、尻尾をふりふり息を切らせながら、必死に足を運ぶのであった。

 二匹が並んで歩くときは、ポチはチャコの横からちょっかいを出したり、前に回ってチャコの行く手をさえぎるようにじゃれたりした。チャコの飼い主さんはお婆さんで、「チャコ、よかったね」と言いながら、いつもゆっくりと散歩されていた。

 大変ポチと仲の良かったチャコだったが、残念ながらポチがいなくなる数年前に、老齢により亡くなったことであった。                              
                                   つづく
 

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2005/07/04

第21章 ポチが好きになった犬「マリ」

 ポチとの散歩では、色々な犬との出会いがあった。事故に結びついた残念な出会いもあったが、逆に微笑ましい出会いもあった。

 家内とポチが散歩中のことである。急にポチが立ち止まり尻尾を振りながら、遠くからこちらに向って歩いて来る犬をじっと待つ。優しそうな奥さんに連れられた柴犬であった。その犬はオドオドしながらポチに近づいた。尻尾は下げたままである。ポチは愛おしそうに、その犬の顔を舐めたのであった。
 「マリ、尻尾を振ってごらん、こうして振ってごらん・・」と、その奥さんはマリと呼ばれた犬の尻尾に手を沿え、振り方を教えていた。マリは心に傷を持っていたようで、尻尾を振ることが無いということであった。
pochi
 その後、ポチとマリとの出会いは数度あったが、ある日マリは、鼻をポチに付けながら、突然尻尾を持ち上げ、ゆっくりと振り始めたのである。奥さんが「マリー!やっと尻尾が振れたね~、よかった~」と嬉しそうに、事情を家内に話し始められたのであった。

 以前、奥さんの息子さんが、横浜市内で追突事故に遭われ、救急車で病院に運ばれた時、一緒に車に乗っていた愛犬(柴犬)が、事故に驚き、飛び出して行方不明になってしまったという。
 その後、息子さんの状態も落ち着き、行方不明になった愛犬を捜されたが、見つからなかったそうである。
 
 そのうち、事故現場の近くに張り出された犬捜索の張り紙を見た人から、良く似た迷い犬がいるとの情報があり、駆けつけ、そしてマリと出会ったという。
 残念ながら自分達が捜していた犬ではなかったが、痩せて怯えきったマリを、そのまま見捨てることができず、行方不明になった犬の替わりに、マリを自宅に引き取ったとのことであった。

 「やっと犬らしい感情を表してくれた!」と奥さんは、マリが尻尾を振ったとき涙ぐまれたのだった。
 ポチも貰い手が無い状態で、縁あって我が家にやって来た犬である。互いの境遇が分かるのか、何か通じ合うものがあったのだろうか。

 それからのマリはポチを見かけると、尻尾を振って走って来るようになった。奥さんも嬉しそうに「有り難う!」と言って、いつもポチの頭を撫ぜてくれた。
 ポチがいなくなった後、買い置きして残っていたポチの好物のジャーキーを、マリにもらって頂くよう、奥さんにお願いした家内であった。                      
                                  つづく

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第20章 ポチが手術を受けた日 

 ポチは右後ろ足の中指を、怪我による手術のため無くしていた。
 ある日、家内がポチを連れて散歩中のことであった。突然、リードをはずされた犬が、吠えながらポチに向って突進してきた。ポチは最初その犬に対し、尻尾を振っていたとのことであったが、委細かまわずその離れ犬は、ポチに飛びついてきた。

 離れ犬とポチは互いに牙をむき出し、唸りあい絡み合った。リードを付けられているポチの動きは制約され、離れ犬に後ろから絡まれる状態となった。家内は「誰かっ!来てっ!」と叫んだ。すぐにその犬の飼い主が走って来て、犬をポチから引き離し、家内に「すみません!」と誤り、「大丈夫ですか!?」と問い掛けた。

 気が動転していた家内は、その場では「大丈夫です」と答えたが、ポチはその時、右後ろ足先を噛まれていたらしく、爪が剥がれ血が出ているのを、家に帰ってから家内は気づいたのであった。
 直ぐに、N獣医師へ駆け込み診てもらったが、なんと爪が剥がれただけではなく、噛まれた指の骨が折れ、外に突き出ているとの事であった。
image02111119
 N先生は、「傷口が深いので、そこから細菌が侵入し、重大な疾病になる可能性もあるので、私としては手術を薦めます。傷めた指を切断しても、術後の生活には全く支障は無いでしょう。」と言われた。このことにより、ポチは右後ろ足の中指を切断する手術を受けたのであった。

 以前のポチは、どんな犬とでも上手にコミュニケーションが取れる犬であったが、この出来事以後、他の犬に対する好き嫌いがはっきりしてしまい、気の合わない犬には敵意を見せるようになった。
 もちろん、気の合う好きな犬には、全身で喜びを表したのはいうまでもない。
                                    つづく

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2005/07/02

第19章 ポチの大好物「ウインナー」

 ポチは散歩に集中する犬であった。散歩の途中、知り合いの誰かが「ポチッ」と声を掛けてくれても全く知らん顔。わき目も振らず散歩に集中した。

 ポチの散歩コースの途中、奥まった所に、家内の友人の家がある。
 彼女が我が家に来たときは、他の知人が来たときと同様に、ポチはいつも大歓迎の仕草を見せた。彼女にも可愛がってもらっていたが、散歩の途中では全く違った。散歩中に彼女と会い、[ポチ!」と声を掛けてもらっても、チラッと見上げるだけだった。

 ところがある日、家内がポチと散歩の途中、所要で彼女の家に立ち寄った時、「賞味期限がもうすぐ切れるから・・」と、ウインナーを数本台所から持って来てくれた。突然の思いがけない好物に、ポチは目が点になり、彼女を見上げて尻尾をフリフリ喜びを表したという。そして、まるで飢えた犬のようにポチは貪り食ったという。
 image02081115その日からポチは、散歩の途中必ず彼女の家に寄ろうと脇道の方へ、私達を引っ張る様になった。「今日は、行かないよ!」と声を掛けると仕方なく、いつもの散歩コースに戻るのであった。
 彼女も動物好きの人なので、時々家内に「今日ウインナーあるから、散歩の途中寄って!」と、わざわざ電話をくれた。
 
 彼女が電話をくれた日には、散歩中彼女の家の近くまで来たとき、「ポチ!ウインナーだって!」と家内はポチに言った。するとポチはサッと頭を上げて、彼女の家まで一目散に早足で歩く。
 家内がチャイムを押している間玄関の前で、尻尾フリフリ幸せそうなポチであった。
                                  つづく

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2005/06/29

第18章 ポチのエピソードⅣ 寿司食っちまったの!?

 ポチは人間好きであった。そして私達の友人達が来訪すると大変に喜んだ。
 友人の来訪を知らせるチャイムが鳴ると、ポチは尻尾を振りながら、玄関まで一目散に駆けて行き、お出迎えした。

 私達は年に何度か、ある友人夫婦とマージャンを楽しむ。
 土曜日の夕方から始め、日曜日に掛かる頃まで行う。
 因みに、夫妻の奥さんは、私達が旅行で帰宅が遅くなるとき、代わりにN先生へポチをお迎えに行ってくださった方である。
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 私達が、マージャンのため、家具調コタツの足に、更に手作りの延長用の足を取り付けテーブルとし、台所から椅子をリビングに運んで、友人夫妻を迎える準備を始めると、ポチも今日は「マージャンの日」と分かるのであった。
 
 ポチは、「マージャンの日」には、誰が来るのかをきちんと理解していた。「待ってたよ」と玄関でお出迎えし、部屋に入りくつろいだ夫妻に、順次あいさつに行く。そして夫妻の胸元に、「なぜて」とばかりに頭を擦り付けるのであった。
 
 その後、自分の居場所は此処と、テーブルの真下に入り、参加を決め込んでいた。
 マージャンが始まり暫くすると、パイを混ぜる音がうるさいのか、部屋の隅に移動し、「フゥー」と溜息をつき、ドテッと音を発てて寝転んだ。
 
 私達がマージャンに夢中になっていると、「夕飯はまだ?遅いなー」とばかりに時折上目遣いで、私達を見上げる。それでも無視されると、私達用のお茶菓子を「失敬!!」と、取りに来る。「ダメッ!」と叱られると、ふて腐れて台所に行ってしまうのであった。
 
 「マージャンの日は妻達にとって手抜きの日!」と言う事で、夕食には持ち帰り寿司を買って来ていた。
 その日は「うどん」と「握り寿司」のセットである。
 マージャン半荘が終わった所で夕飯にしようと、家内が寿司を取りに台所に行った途端、[何ぃー!これぇー! ポチー!お寿司食べてしまったのー?!」と、何やら大声を張り上げた。
 
 私も急ぎ見に行くと、床の上に空のパックが三つ、握りのシャリがゴロゴロ、ウドンのパックはそのまま・・・何とポチは、台所のテーブルの上に置いてあった、私達の夕飯用の寿司を、二人前はペロリ、一人前はシャリを残してネタだけを食べていた。
 
 私達の慌てぶりを上目遣いに見ながら、ポチは[大満足じゃぁ~!!」とばかり舌なめずりしていた。家内は怒る気力も失せて呆然としていた。満腹になったポチは、その後マージャンの音が気になる様子も全く無く、パンパンのおなかを無警戒に我々に見せながら、爆睡状態となっていた。
 
 その日の私達の夕飯は、手付かずの寿司パック一人前と、カップヌードルであった。
                                  つづく

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2005/06/22

第17章 ポチのエピソードⅢ 寿司食いねぇ~

 ポチの主食は、家内手作りの牛肉・鶏肉・豚肉と人参等野菜の炊き合わせであった。これらに、軟骨・砂肝・レバー等を取り入れ、ポチが喜ぶように色々工夫し、適量のご飯と混ぜ食べさせていた。ドッグフードには見向きもしなかった。
 
 獣医師のN先生からは、「ドッグフードは栄養のバランスも考えられています。飼主が毅然とした態度で臨めば、ドッグフードを食べますよ。食べるまで水だけでも大丈夫ですから・・・」とアドバイスを受けていたのだが・・・結局、私達よりポチの方が根性があり、私達が根負けした。結果、彼が老犬になり、シニア用を少量餌に混ぜて食べるようになるまで、ドッグフードなるものをポチは食べなかった。
5250家内が、友人達との旅行で幾日間か留守にするときは、留守の日数分だけポチの餌を作り、冷蔵庫に保存してから出かけた。私の食事のことより、ポチの餌作りが優先されるのである。もちろん、家内の留守中、ポチの世話をするのはこの私であった。
 
 余談だが、ポチの食費がかさむとのことで、おやつのジャーキーは私の小遣いで賄っていた。ジャーキーはポチの大好物のひとつであったが、さらなる好物は寿司であった。
 
 今夜は手巻き寿司にしようと、家内が寿司飯を作り出したら、ポチはもう台所にへばり付いて家内の後を追い回していた。
 私達が、それぞれ自分の好みのネタを手巻きにして食べ始めるのを、横目でチラチラ盗み見しながら、一目散に自分の餌を食べ、そして食べ終わるや否や私達の前にお座りして、手巻きを待つ。
 
 私は、親指の先ほどの寿司飯に小さなネタを乗せ、海苔に巻いて、ポチ用の手巻き寿司を握ってやる。そして、「ヘイ、お待ち!」と言って、ポチにやった。
 もちろん海苔巻きも大好き!舌舐めずりをしながら、尻尾をフリフリ次の握りを待つ。「早くくれっ!」、ポチはせっつく目で私を見上げる。
 
 「ヘイッ、お待ち!」、「パクッ」・・、「ヘイッ、毎度!」、「パクッ」・・、「お客さん、食べっぷりいいねえ、ヘイッ、お待ち!」、「パクッ」・・と繰り返しながら、私達は寿司パーティーの日を楽しんだのであった。                                               つづく

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2005/06/17

第16章 ポチのお泊りⅢ 友人のお迎え編

 ポチをN先生に預けての旅行は、出来るだけポチに負担をかけないよう努力した。
image11214633私達夫婦の趣味のひとつは、山登りである。ポチが我が家の一員になってからは、泊まりでの山歩きを極力少なくしたが、高山植物が一斉に花開く夏山シーズンともなると、話は別である。ポチには我慢してお泊りしてもらうこととなった。
 ポチにとって我が家が一番!なのは分っているが・・許せ!ポチ!・・と言う心境であった。

 帰宅時間が遅くなる旅行のときは、私達と家族ぐるみでお付き合いをさせてもらっている家内の友人に、ポチのお迎えをお願いしていた。ポチも彼女がお迎えのときは、医院を出た後、彼の散歩コースに、遠慮なく彼女を連れ回していた。
 
 散歩の終わりで、我が家とN医院との分かれ道まで帰って来た時、彼女がポチをからかって、「ポチ!N先生に行くよ!」と立ち止まる。とたんにポチは、「冗談じゃない!」と言う顔で彼女と向かい合わせになり、綱引きの状態で、後ろ向きに我が家の方へ引張っる。
 彼女が「うそだよ!」と言ってポチに付いて歩き始めると、「フン!☆」と大きく鼻を鳴らし、スタコラサッサと我が家へ小走りに歩き始めたよと、大笑いであった。
3玄関の鍵を開け、家の中に入れてもらうと直ぐにポチは、台所、二階、と私達を捜すらしい。まだ帰ってないのが分かると、彼女から大好きな「ちくわ」と「ジャーキー」をもらって、台所のテーブルの下へ行き、ドタンと寝そべって「フゥ~」と溜息をついていたそうである。

 後刻、私達が帰宅すると、玄関から飛び出して来て、「散歩、まだだよ!!」とばかりにフェンスへ走り、門扉の取っ手を要領良く、鼻で開けるポチであった。
                                  つづく

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2005/06/14

第15章 ポチのお泊りⅡ チェックアウト編

 ポチをN先生に預けての旅行は、私も家内もポチに対し、やましさを感じていた。
 
 旅先から帰るや否や、家内はウンチ袋を手に、N医院に駆けつける。
 医院の奥のケージから開放されたポチは、床を転がるように滑りながら、千切れんばかりに尻尾をふり、声に成らない声を発しながら、家内の膝に飛び込んで来て、顔を舐め回していた。
 家内は、ポチとの主従関係で、自分が主である事が自覚できるこの一瞬が、たまらなく好きだったらしい。
image02141123
 留守中のポチの様子を先生は、「この子は感受性が鋭いですよ。散歩から帰る途中、医院と自宅との分かれ道で、必ず家の方向を見て、まだあなた方の気配がないことを自分が納得してから、医院に戻って来るんですよ。本当にお利口さんで、いじらしいですよ。」と報告して下さった。

 私はいつも医院の外で家内とポチを向え、共に散歩を楽しんだ。ポチもこの時は、私達が一緒に歩いていることを確認するかのごとく、何度も我々を見上げ、弾んだ足取りで先を歩くのであった。 
 
 後日お隣の奥さんから、「ポチったらN先生と散歩の時、声を掛けても知らん振りして、顔を背けるのよ」 「目一杯、痩せ我慢してた感じ!」との報告であった。 
 もちろん、いつもは奥さんに、べったり甘えるポチであった。
                                      つづく

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2005/06/10

第14章 ポチのお泊りⅠ チェックイン編

 私達の楽しみの一つは旅行である。もちろんいつもポチを連れて行ってやれればいいのだが、1、2泊の国内バスツアー、数年に一度の海外旅行ともなると、そうもいかない。
 有り難い事に、我が家から歩いて2~3分の所に、掛かりつけのN獣医さんがあり、ポチを預ける時は、いつも先生にお願いしていた。
image02151124
 旅行に行く前必ず、家内はポチを呼び寄せ「ポチは明日からお留守番、N先生でお留守番、1,2,3・・ 3日間お留守番・・」泊まる日数の数だけポン、ポン、ポンと彼の背中を軽く叩いて、「ごめんね」と抱きしめて話かけていた。

 何度か旅行を繰り返す内に、ポチはすっかりこの言葉の意味を理解してしまった。
 家内が「ポチ話がある、おいで・・」と言って「あのね、お留守番・・・」と話し出すと、家内の膝をカリカリ掻き、頭を摺り寄せて「いやだ!!置いていかないで!」と、必至で甘えていた。
 
 「N先生に行くよ!」と家内が玄関に出ても、部屋の隅に隠れて出てこない。先生の所に行く手前までジャンプを繰り返し、ささやかな抵抗をした。・・が角を曲がり、医院が見えると覚悟がつくのか、スタコラサッサと階段を登った。
 
 目一杯見栄を張った男らしいポチであった。
                                     つづく

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2005/06/06

第13章 ポチは人の言葉がわかる?「シャンプー」

 ポチは私達の言葉をある程度理解していたと思う。
彼はシャンプーが大嫌いであった。ポチをシャンプーするときは浴室を利用していた。
 
 天気の良い日曜の朝、ポチをシャンプーするべく、家内はポチ専用のバスタオルをそっと用意し、風呂場の脱衣場の床にやはりポチ専用の足拭きマットを敷く。朝の散歩の後、リビングのお気に入りの場所で寝入っているポチに声をかける。「ポチ、今日は天気が良いのでシャンプーしようか。」
  image02131122
 この一声で、寝ていたポチはとたんにむくりと立ち上がり、尻尾をたれ、すごすごと自分のいつもの場所から離れて部屋の隅に移動し、そこでうずくまってしまう。
 そして、家内を上目遣いに見て、「シャンプーはいやだ」という意思表示で、床に寝そべって、てこでも動かなくなってしまう。
 家内は、体を硬直させ重くなったポチを抱き上げ、浴室内に連れて行き、シャンプーを始める。いざ始めると気持ちよさそうに、首を左右にググッともちあげて、家内を優しい目で見上げていた。
 
 シャンプーの後、バスタオルで水分を拭き取ってもらい、苦手なドライヤーも終わると、冷蔵庫の前にいそいそと行き、白くふさふさになった尻尾をフリフリ、ご褒美のジャーキーを催促するのであった。
 その後自分の寝場所へ行き、「ああ、ひどい目にあった」というように、ふーんと大きく鼻でため息をはき、大仕事が終わったというように寝てしまった。

 シャンプーという言葉はポチに対し大変効果があり、ポチがいたずらをしている時、「ポチッ!シャンプーするよ!!」の言葉に、即座にいたずらをピタッと止めたものであった。         
                                  つづく

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2005/05/29

第12章 ポチのエピソードⅡ 家出癖

 ポチは家出をするのが得意であった。前の記事でも書いたが、私達がポチの脱出防止の工夫をすれば、更に彼は、金網ネットの下の地面を掘って抜け出したり、私達が居ると、「とてもこのフェンスは越えられないよ」と言うように、フェンスに飛びつきもしないのだが、私達がいないと、懸命に跳びつきよじ登って、脱出していたようである。
image02020105
 ある日、私はカゼ気味で体調が悪く、仕事を早めに切り上げ、夕方早く帰宅した。
 家の近くまで歩いてきて道の角を曲がった時、ちょうど家を脱出し、これから楽しい散策にお出かけ途中のポチに出くわした。距離にして約20m弱である。
 
 こちらも「あれっ、ポチが出ている!」と驚いたが、ポチは更に驚いたらしく、「なんで今ごろ帰ってくるの?」という顔つきで、一瞬目を見張った様子だったが、直ちにくるりと180度向きを変え、いかにも「貴方を迎えにきたんだよ」というように、私の先に立って家に向ってタッタと歩き出した。家まで来ると、玄関のフェンスの前で、じっと立ち止まり、私の方は一切振り向かずに、庭の中を見ていた。
 
 フェンスを開けて庭に入れてやると、さっさと寝場所に行き寝てしまったポチの心境は、どんなものであったろうか。今思い出しても笑いがこみ上げてくる。
 
 帰宅した家内にこの事を話すと、大笑いになったが、今後近所に迷惑が掛かることであり、ポチを室内で飼うことにしたのであった。
                                   つづく

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2005/05/28

第11章 ポチのエピソードⅠ 雷が怖い

 ポチは雷が大きらい。大変恐ろしく、苦手であった。
 空模様がまだ明るく、私達には全く雷鳴が聞こえていなくても、ポチには聞こえるらしく、ぐっすり寝ていたとしても急に頭をもたげ、目の焦点を遠くに合わる。耳をそばだて、遠くのかすかな音に聞き入る。
 その音が雷鳴と分かると、とたんに落ち着きがなくなり、むくりと起き上がった。
 
 私達にも雷鳴が聞こえる頃には、身の置き所が無いようにうろうろと、家の中を歩き回った。
 やがて雨がザーと降り出し、稲妻が走り、雷鳴がとどろくようになるとさあ大変である。一目散に玄関まで走り、ドアに手を掛け、ガリガリと引っかいた。とにかく外に出たがった。
 体を抱いてやり、「大丈夫!」と声をかけても、全くうわのそらで、ぶるぶる震えていたものである。
 
 ポチを室内で飼う以前、彼が我が家に来て3~4年の間は、外で飼っていた。庭をネットフェンスで区切り、ポチの居場所を造っていた。
 image02030106私達夫婦は共に仕事を持っていて、留守勝ちであった。
 その留守の間に、にわか雨が降り雷が鳴ると、ポチは急ぎ我が家の裏手に回り、隣家との境のフェンスの、少し壊れていた隙間から外に脱出し、雨の中を当ても無く、タッタ、タッタと、ずぶ濡れになりながら、歩き回っていたようである。
 そして、雨があかる頃には帰宅し、何食わぬ顔で、私達が帰宅するのを待っていた。
 
 このことは、近所の人達から、「先日、土砂降りの中を、ポチが小走りに歩いていたよ」とか、「この前、ずぶ濡れで歩いていたの、お宅のポチじゃなかった?」とか言われていたが、家内はてっきり、ポチが家でおとなしく待っているものと思っていたため、「それはポチに良く似た犬じゃないの?」と返答していた。
 
 ある雷雨の日、家を脱出したポチが雨が上がった後、家の前まで帰宅した時、偶然お隣の奥さんに出くわした。当時お隣も柴犬を飼っていて、奥さんもポチのことを可愛がってくださり、ポチも奥さんに馴れていた。
 いつもはポチは家の裏手から入るのだが、その日は奥さんに甘え、玄関のフェンスの前でお座りし、「帰宅したボクを、中にいれてよ」と言うように、奥さんを見上げたという。
 
 奥さんはフェンスを開け、ポチをその住処まで入れてやってくださった。
 このことを奥さんは、笑いながら家内に話してくださり、初めてポチの脱出癖を知った次第である。
 
 その後、フェンスを修復したり、金網ネットを周囲に張り巡らせたりしたが、雷雨の日以外でも、彼の脱出癖は治らなかったので、室内で飼うことに決めた。
 
 しかしながら、あれ程雷を怖がったポチも、ここ数年は耳も遠くなり、かなり大きな雷鳴がなっても、全く起きることもなく、一日中寝て過ごす毎日となっていた。
 若い日のヤンチャぶりが、懐かしく思いだされた。
                                   つづく

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2005/05/11

第10章 ポチと米軍厚木基地へ行った日

image01122803神奈川県大和市と綾瀬市にまたがって広大な敷地を有する米海軍厚木基地は、地元住人との交流をはかる為、年に2度程日曜日に、基地開放日を設けている。開放日には、一般の人達が大勢押し寄せ、普段我々が入れない基地内は、活気に溢れる一日となる。
 
 平成8年の春、桜が満開の頃、基地開放日に私達は、ポチと一緒に厚木基地へ入った。
image01192816250 基地内では、米軍機の編隊飛行による航空ショーがあったり、また基地の兵隊さん達も、グループで模擬店を多数出店し、バドワイザービールなどを市価より安く売っていた。当時は結構買っていく人達も多かったが、最近は国内でも価格が下がってきて、以前ほどはメリットが無くなっているように思う。

 私達の他にも、愛犬を連れて来ている人も多く、ポチは他の犬を見るたびに、雌犬には懸命に尻尾をふって愛嬌を振りまいたり、雄犬には唸ってみたりと、忙しく動いていた。
image01212818
 航空ショーが行われる滑走路付近は込み合っていたが、少し離れた道路は喧騒から開放されていた。道路際には芝生が植えてあり、桜並木になっていて、ちょうど満開であった。

 見事な枝振りの桜の下で、私は家内とポチをカメラに収めた。日差しがまぶしい春の一日であった。
                                   つづく

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2005/05/04

第9章 ポチと白馬村、東尋坊を旅した日(3)

 長野県小谷村のペンションに一泊したポチと私達は、翌朝早く北に向い出発した。その日は雲ひとつない晴天で、真夏の太陽が朝から照りつけていた。この年の夏は特別暑かったのを記憶している。
image05121332
 新潟県へ出て、西に進路をとり、富山県を通過し、福井県の越前海岸に着いたのは昼過ぎだった。ポチの車酔い防止のため、後部座席の窓は左右とも10cm強開けてある。エアコンは最強にしてあったが、それでも車内はかなり暑くなっていた。海岸沿いをしばらく走ると、やがて東尋坊に着く。
 
 車の外は更に暑かったが、せっかく来たのだからと、カメラを三脚に据え、シャッターをタイマーにセットし、私達とポチで並んで記念撮影となった。カメラ視線のポチも、暑さに少々バテ気味でお座りし、カメラに収まった。
 撮影の後、ポチにたっぷり水分を摂らせ、急ぎ車に帰り、エアコンをフルに効かせて京都府へと出発した。
 
 福井県、京都府の日本海側は、海水浴場も多くあり、ところどころで渋滞につかまったが、夕方には無事福知山市の私の実家に、たどり着くことができた。田舎でポチは、一面に広がる青々とした水田に通る農道を散歩し、食事の後はぐっすりと寝ていた。
 
 私の甥っ子達にも大変可愛がられていたポチは、彼なりに充実した休暇を、毎年送っていたように思う。
                                   つづく

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2005/04/29

第8章 ポチと白馬村、東尋坊を旅した日(2)

 平成7年のお盆休み、私達とポチは長野、福井を経由して、京都府北部の福知山までの旅の途中であった。昼頃、白馬村に着いた私達は、岩岳という白馬岳が展望できる低山の駐車場に車を止め、ポチと一緒に登った。
image05011304
 岩岳はハイキングコースにもなっているが、その日登っている人はほとんどなく、私達だけの世界であった。
 真夏であったが信州の高原の風は涼しく、ポチは先頭に立ち得意そうに、「早く行こうよ」と言うように私達を振り返りながら、弾むように足を運んで行く。途中何回か休憩しながら、一時間程で峠に着いた。
image15786715

薄日が差す空模様であるが、生憎白馬岳はその頂上付近を雲に隠していた。余談であるが、この3年後の夏に、私と家内は白馬岳山頂を、踏破することになる。

 峠でゆっくり時間を過ごした後、私達は下山し、車で白馬村からさらに北の小谷村に向かった。
 小谷村の予約してあるペンションに着いたのは、夕方近くになっていたが、日はまだ高い位置にあり、日暮れまで時間はあった。荷物を部屋に降ろし、少し休んでから、ポチと一緒に近くの牧場に散歩に出かけた。
image05041312
 その牧場は羊が飼育されていて、青々とした牧草の中に沢山放牧されていた。周囲は私達だけだったので、ポチのリードをはずしてやり、散策した。もちろん、牧場の周囲は金網の柵が施されているが、ポチは羊の群れが珍しいらしく、柵の周りを遠巻きに、飛び跳ねるようにして走り回っている。
 楽しいひとときの後、漸く夕闇があたりを包んで来たので、私達は宿へと帰った。
 
 ポチに餌をやった後、私達が食事を済ませた頃には、ポチは一日の遊び疲れか、ぐっすりと寝入ってしまった。夢の中で走っているのであろう、寝ながらその足を盛んにピクピクさせていた。
 翌日は新潟、富山、福井を経由して京都府へ向かうことになる。
                                   つづく                             

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第7章 ポチと白馬村、東尋坊を旅した日(1)

 平成7年8月のお盆休みにポチを連れて、長野県から日本海へ抜け、福井県を経て、私達の郷里である京都府北部の福知山まで旅をした。
 
 この年の夏は休日の並び具合が良く、何時もの年より長く休暇が取れたので、白馬岳のふもと長野県小谷村の、ペット連れで泊まれるペンションに一泊し、翌日小谷村から日本海まで北上し、西に向きを変え、福井県越前海岸を通り東尋坊を経て、丸々二日がかりの帰省である。

 お盆休みの初日、まだ夜の明けきらない4時に起床する。こんなに早く何事かと、首をむくりともたげて目を覚ましたポチを、「散歩に行くよ」と薄暗い街に連れて出た。
 いつもはポチは、「ボクの行きたい方向はこっちだよ」とばかりに、あちらこちらと私を引張るのだが、いつもと様子が違う場合は、彼も気になるらしく、私の顔をチラチラと振り返りながら歩く。
 適当に歩いたところでポチは「もう帰ろうよ」というように立ち止まり私を見た。
 散歩から帰り、水を与え、出発の準備もそこそこに、早朝5時には、神奈川県の自宅を出発した。
image05021305
 厚木市内を北西へ抜け、相模湖インターから中央道に入り、一路諏訪インターを目指す。私達の朝食は車内で、私がポチの散歩中に家内が作った、おにぎりをほおばる。 途中トイレ休憩とポチの散歩のためパーキングに止まり、9時頃には諏訪インターに到着、休憩後長野自動車道へ入り、松本方面へ北上した。
 松本からは一般国道を走り、休憩を取りながら、昼頃には白馬村に着いた。

 夏の信州の爽やかな空気の中で、私たちとポチは伸びやかに時を過ごすことになる。
                                   つづく                         

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2005/04/02

第6章 ポチとあじさいの町に行った日

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 神奈川県西部の開成町は、田園風景が広がる農業の町である。田んぼのあぜ道に、ずらりと並んで植えられたあじさいが、6月には一斉に咲き、雨にけむった風景に溶け込むように風情がある。毎年あじさい祭りが開催され、近隣から人を呼んでいる。
 
 平成7年6月に、私達はポチを連れ、開成町へ行った。薄曇りの空模様で雨は降っていなかった。
 区画整理された、四角い大きな田んぼが整然と連なり、それぞれの田んぼのあぜ道に、あじさいが並んで咲いていた。その日は日曜で、人出で賑わう中を、ポチと共に散策する。
 image03531111
 歩き疲れた人達が、小川の流れのある小さな広場に集まり、しばらく休憩している。流れの淵には菖蒲が植えられている。私達も休憩の為、その中にポチを連れてはいると、彼は周りの人達から暖かい視線を向けられ、幾人かには声をかけてもらった。
 家内のうれしそうな笑顔と、ポチの得意そうな顔が、後日まで永く印象に残った一日であった。 
                                   つづく

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2005/03/12

第5章 ポチと桃源郷へ行った日

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山梨県の一宮町、御坂町一帯は、桃の産地で有名な地域で、春には、あたり一面香るような、ピンクの絨毯を広げたようになる。関東の桃源郷として人気がある。
 平成7年4月半ば、私達はポチを連れて、御坂町へ遠出をした。薄曇りの空から柔らかな日の差す、穏やかな日であったのを記憶している。
 
 車を広い農道の端に止め、私達とポチは、咲き誇った桃の花の間を散策しながら、春の楽しさを満喫した。ポチは遠出の度に、新しい場所へ来た事に喜び、興奮気味となり、周囲を嗅ぎ回りながら、得意になって、私達を引っ張って歩いた。
image03230520250 この桃の花も、少しの期間の後、秋に立派な実を結ぶため、農家の人達によって摘み取られる。開花してから、束の間の、春の風物詩となっている。この地もまた、ポチと来たのはこの日限りとなった。
                                   つづく

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2005/03/06

第4章 ポチと吾妻山へ行った日

 神奈川県二宮町にある吾妻山は、山と言うより家族連れで手軽に登れる丘である。春には菜の花が咲き誇り、富士山の展望が素晴らしいことで、地元の人々に大変人気がある。平成7年3月、その吾妻山へポチと家内とで登ったことがある。image03100317
 自宅から車で1時間、午前中に出発する。人気のお出かけスポットのため、早めに着かないと、駐車場がすぐに満車になってしまうことが多い。
 
 駐車場から急な石段と坂を、およそ 15分ぐらい登ると、やがて素晴らしく開放感のある頂へ着く。青い相模湾を望める頂付近は、広く芝生の植えられた展望台になっていて、その日も多くのカップル、家族連れが集まっていた。
 早春ではあったが、湘南の春の日差しはとても暖かく、風も穏やかであった。晴れ渡った空に、ぷかぷかと雲が漂っていた。image03070310
 ポチは、初めての場所へ来たことに興奮気味で、芝生に鼻を擦り付けながら、リードを引っ張りあちらこちらへ家内を振り回す。他にも、犬連れの人達がたくさん来ていて、人間どうし、犬どうし、それぞれ挨拶を交わし、春のひと時を楽しんでいた。私達も春の日差しを一杯浴び、菜の花を愛で、富士山を眺めて、楽しい時間を過ごした後、昼過ぎには帰宅した。
 
 来年以降も、時々ポチを連れて行こうよと話し合ったものだったが、また行こうと思いつつ、吾妻山でのポチとの思い出は、残念ながらこの日だけとなった。
                                   つづく

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2005/02/27

第3章 ポチと初めて遠出した日

 ポチと車で初めて遠出したのは、平成2年の暮、私達夫婦の故郷に帰省した日だった。私達夫婦は京都府北部の出身で、二人の実家は互いに隣町にある。
 毎年、盆と正月には車で帰省し、それぞれの実家に、3日から4日づつ滞在するのを、恒例としていた。
 ポチを連れて帰省するか、自宅近くの獣医さんへ預けていくか、悩んだが、我が家に来て1ヶ月、漸く新しい環境にも慣れた様子であり、彼だけを残すのは可哀そうと思い、連れて行くことにした。
  
 いきなり遠出では、ポチには大変なストレスになるので、近場に数回彼と車で出かけ、慣らすことにした。後部座席に彼を乗せ、窓を少し開けフレッシュな空気が入るようにし、出発する。
image03160504ポチは、少し開いた窓から鼻を突き出し、外の空気の匂いを嗅ぎながら乗っていたが、10分ほど走ったところで、「うお~~ん、うお~~ん」と遠吠えした。我が家に来た日、車で連れてこられたのを思い出したのか、そわそわ落ち着かなかったが、家内が頭、胸等を撫でてやると、漸く落ち着いたようであった。
 
 数回の乗車経験を経て、いよいよ神奈川県から京都府へ、およそ8時間の長旅に出発した。途中2時間毎に、パーキングエリアで休憩を取り、水を与え、用を済ませる。
 ポチをパーキングエリア建物内に連れて入ることは出来ないので、私達の食事は、建物の外へ持ち出しが出来る、うどん、そばをとる。
 真冬であったが、後部座席の窓を適度に開け、新鮮な空気を入れるのは勿論、暖房も極力控えめにし、我々は着膨れ状態で田舎まで走った。
 私達それぞれの実家でポチは、親、兄弟、甥、姪等、家族全員から大歓迎を受け、たちまちに人気者となる。

 以後、正月と盆の年2回、ポチとの往復16時間に及ぶ車での長旅は、平成16年のお盆まで、繰り返されされることになる。
                                   つづく

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2005/02/23

第2章 ポチと初めて逢った日

 ポチと初めて逢ったのは、ポチが我が家に来る1週間前の日曜日の午後である。それより何日か前に家内から、犬を飼ってもよいかと言われていた。
 
 私の住んでいる神奈川県綾瀬市は、米海軍厚木基地、米陸軍座間キャンプが隣接し、そこに勤務しているアメリカ兵達、その奥さん達が、サイドビジネスで英会話教室を主催し、近隣の住民に教えていることが多い。私の家内も、若いアメリカ兵の先生が主催する英会話教室にかよっていた。先生の奥さんは日本人で、家内とも仲良くさせてもらっていた。
 image02040108先生夫妻は2歳になる犬を飼っていて、それがポチであった。夫妻に子どもが生まれるまではポチも可愛がってもらっていたようだが、子どもが生まれてからは、夫妻の愛情は子どもに移っていたようである。土曜、日曜は家族で外出することが多く、ポチはさびしく留守番をすることが多かった。

 一般的に、日本国内に勤務する米兵は、2年から3年ほどで本国に帰るようになっている。夫妻も平成2年11月末に帰国する運びとなったが、犬は日本に置いていくことにした。
 彼らは兵隊仲間、知り合いなどに声を掛け、犬の引き取り先を懸命に探したが、容易にはみつからず、最悪は保健所に引き取ってもらうことまで考えた末、私の家内にも声を掛けたのであった。

 「とにかく1回犬をみて」と家内に言われ、私たちは座間市内にあった、夫妻の借家まで出かけた。何かおやつをと思いウインナーを2、3個持っていった。その日曜日もやはり、夫妻は留守であった。
 
 家の庭先のフェンスまで行くと、庭の奥に彼はいた。彼は遠くから上目遣いに、「だれ?なにしに来たの?」というように、顔を半分そむけるようにしながら私達を見、鼻をひくひくさせていた。
 持参したウインナーを手に持って振りながら、「おやつだよ」とフェンス越しに何度か声を掛けてやると、漸くゆっくりと、フェンス手前までやってきた。
 
 おとなしくじっとしている彼の頭を、フェンス越しに数度撫でてやり、ウインナーを与えると美味しそうに食べた。しばらく私達は彼を観察し、非常に利口な犬であることが分かり、また私達が飼わないと可愛そうな境遇になることもあって、彼を飼うことに決めたのであった。
                                   つづく

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2005/02/19

第1章 ポチが我が家にやって来た日

 ポチが我が家にやって来たのは、平成2年の11月も終わりの頃で、庭には、散り残っているコスモスが咲いていたのを記憶している。彼の生まれた年月は分からなかったが、家内からは、2歳になっていると聞かされていた。
 
 晩秋、晴れた日曜日の午後、まだ若い前の飼い主夫妻とポチは、彼の犬小屋と一緒に、車に乗ってやって来た。もっとも、ポチという名は私達夫婦が付けた名前で、それまでの呼び名は、今となっては分からない。
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 前の飼い主夫妻は、ポチと犬小屋を手早く降ろし、私達に「それでは宜しくお願いします。」と告げ、ポチに別れを惜しむ間もなく、早々と去っていった。
 
 私達は家の南に面した庭の東端に犬小屋を置き、ポチを庭に放してやった。彼はしばらく庭の中をうろうろと回りながら、家の壁、植木、草花、フェンス等に、鼻をくっつけクンクンと臭いを嗅ぎ回っていたが、やがて顔を高く上げ、「うぉ~~ん、うぉ~~ん」と何度も遠吠えを繰り返した。
 
 2年近く一緒に暮らした、前の飼い主に対する惜別の感情表現だったのだろう。私達は「ポチ、ポチ」と繰り返し呼び、「今日からここがお前のおうちだよ」と、彼の頭を幾度も撫でながら言い聞かせた。
 
 夕方になり、犬小屋に入るかと見守っていたが、彼は二度とその犬小屋に入ることはなく、庭の隅で寝ることを決めた様子であった。
                                   つづく

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